53-6 駿府 福島屋敷6
郊外の兵と合流するべきかと話し合っていた時、早々に段蔵が戻って来た。
何かわかったのかと皆が注視する中、段蔵は片膝をついて頭を下げた。
そこで自動的に視線を集めたのが、その背後で所在無げに立ったままの年かさの男だ。
「どうやら北殿には御屋形様はいらっしゃらないようです」
「いない? どういうことだ」
勝千代が強めの口調で問うと、棒立ちの男がさっと身をこわばらせた。
見覚えのある男だ。今川館で監査の為に監禁されていた高級文官のひとりじゃないか?
徹底的に視線が合わないので、その分余計にじろじろと見分してやった。
ますます身体の震えが大きくなり、ガタガタと奥歯が鳴る音がする。
「この者らが結託して攫い、興津殿の目が離れたすきに簀巻きにして小舟で川に流そうとしたそうで」
「……は?」
思いっきり胡乱な声が出た。
主君であり駿河遠江二国の国主である御屋形様相手に、「そうだ、簀巻きにして川に流そう!」と画策するなど、正気の沙汰ではない。
だが御屋形様さえいなければ、諸々のことが元通りになると考えた者は一定数いたようだ。
実際に暗殺して命を奪うよりはハードルが低かったのだろうが、そんな事をすれば御命に障るのはわかりきった事。
もちろんこの企みは失敗した。
田所らと下位文官に気づかれ、興津が戻ってくる前に未然に防がれた。だが御屋形様は今川館の外に連れ出される寸前だったようで、意識はなく、眠らされるために飲んだ薬のせいか、病状が取り返しつかないほど悪化したのか、ずっとそのまま目を覚まさないそうだ。
伊勢殿ご一行が今川館に到着したのは、そんな差し迫ったタイミングだった。
本来であれば、すぐにも奥にお戻しするべきだった。
だが、北殿にいる誰が御屋形様に害意を持っているか、はっきりしないうちは戻せないと田所は判断した。
「故に、田所殿が攫ったと言われているようです」
田所は江坂家の者。要するに福島家が手をまわして御屋形様を誘拐したことになっているとか。
なんでだよ。
幸いにも、実行した者たちを生きたまま確保できている。かなりの人数だったようだ。
恐ろしい形相で追ってきた興津も誤解とわかってくれて、この分だと御屋形様に眠り薬を盛ったのは御殿医だろうと話し合い、やはり北殿へ戻すのは危険ということで二人の意見が一致した。
それではどこに行ったのか。
皆の意識が伊勢殿らご一行に移ってしまったので、文官も知らないと言うし、段蔵も追えなかったそうだ。
「つまり御屋形様は興津殿の兵に守られ、どこか安全な場所にいるということか?」
そう問いただしたのは朝比奈殿だ。
酷い顔色の文官は、天の助けとばかりに朝比奈殿を縋るように見上げて、二度三度と頷いた。
相変わらず歯の根が合わないほど震えており、今にも勝千代が「死ね」というのではないかと恐れている風だ。
……だから、なんでだよ。
皆の視線が勝千代の方を向く。
何があるかわからない今川館に、御屋形様がいらっしゃらないというのは悪い話ではない。
ただし、意識不明だというのは状況的によくない。今川館から遠ざけたその正当性が怪しくなるからだ。
風魔小太郎は去る前に、御屋形様の所在を調べて長綱殿に伝えたはずだ。
おそらくあの男にはそれが出来ただろう。ではなぜまだその話が公になっていない?
この手の話が表に出ない理由は大きく二つ。
彼らにとって都合が悪くなるか、あるいは都合よく利用しようとしているか。
勝千代はじーっと文官の細長い顔を見ながら思案した。
文官の顔からは完全に血の気が引き、今にも失神してしまいそうだ。
たった八歳の子供相手に何故そんな顔をする? いつもの人格破壊を狙っていそうな嫌味はどうした。
いや本当はわかっている。勝千代が血の粛清をもって今川館を攻めると思っているのだ。
実際、血を流すことはともかくとして、伊勢や北条が大きな顔をしている今川館を取り戻すことは必要だろう。
それについては、今の二千の兵だけで十分に可能だ。
だが、その総大将は御屋形様であるべきだ。
だからこそ、なんとしてもその御無事を確かめなければならない。
勝千代? そんな大役を担っても、謀反だと断じられる結末しか思い浮かばない。
そこまで考えたところで、ふと思った。
……いや、そう言われたとして、何の問題がある?
庶子のひとりが謀反を起こし、主筋がそれを拒否したとして、跳ね付ける力がなければ何もできない。
現状、彼らの支持基盤である駿河衆は伊豆だ。
急に、朝比奈殿に渡された小刀をひどく重く感じた。
朝比奈殿はそこまで考えてこの刀を預けてくれたのだろうか。
おそらくは井伊殿も力になってくれるだろう。遠江の国人領主たちの多くも勝千代の側につくはずだ。
ああ、まったくもって難しいことは何もない。
今のままでも、この国を獲れる。
勝千代はふいっと雨の続く屋外に目を向けた。
国を獲る? この国を?
勝千代自身は庶子だという意識が強く、今川家の後継に名乗りを上げるつもりなどまったくなかった。
だがそうなれば、桃源院様の危惧は間違っていなかったということになる。
その警戒心が勝千代を育て、ここまでにした。
出る杭を打ちすぎて、逆向きに飛び出したようなものだろう。
臥所から勝千代を睨んでいた御方の顔を思い出し、唇に笑みが上る。
誰かが息を飲む音がした。
視線を戻すと、その場にいる全員がひどく緊迫した表情で勝千代を見ていた。
「……今川館に御屋形様はご不在のようだ」
「立たれますか」
まるで明日の予定を聞くような、なんということもない口調。
勝千代は朝比奈殿の真顔を見返し、再び笑みが込み上げてくるのを感じた。
「そうだな」と軽く返すと、ざわりと声なきどよめきが周囲に走る。
言葉にして初めて、引き返せない道に踏み出したことを自覚した。




