53-5 駿府 福島屋敷5
勝千代らが騒ぎのもとへ駆けつけた時、その場では聞くに堪えない罵声が上がっていた。
言わずものがな、亀千代だ。
必死で止めようとしている家宰や、上役であるはずの湯浅殿まで乱暴に振り払って、足で建物の柱を蹴りつけ、生垣に向かって刀を振りまわしている。
何が彼をここまでさせるのか。その醜態はまるで子供の癇癪のようだ。
本当は己がここの家の嫡男であるべきだった。本当なら若君と呼ばれ、大軍を率いるのは己であるべきだった。
勝千代への悪口雑言にまじえて、そのような意味合いのことをしきりに言っている。
何故うまく行かないのか。もう少しの所だったのに……と。
いや、まったくもう少しでもなんでもないからな。
「……捕縛せよ」
溜息を交えてからのその命令に、躊躇なく真っ先に足を踏み出したのは藤次郎だった。
次いで土井らが素足のまま土間に飛び降りて、その場にいる「客人」たちに向かっていく。
勝千代は上がり框の上のところで仁王立ちになってその様子を見ていた。
今更この数の優位が覆るとは思わないが、確実に連中を捕えるところを見ておきたかったのだ。
「死ね! 死んでしまえ!」
亀千代がこちらの存在に気づき、抜き身の刀を振りかぶりながら駆け寄ってきた。
即座に反撃の構えを見せたのは護衛組だ。彼らもさっと刀を抜いて、何の躊躇もなく応戦の構えを見せる。
だがまあ、所詮は亀千代だ。
何もないところで躓いて大きくバランスを崩し、握っていた刀が手を離れて明後日の方向、生垣に向かって飛んでいった。
い、いや。笑ってはいけない。勝千代がやっても似たようなことになるに違いないのだから。
だが亀千代は失笑をかった気配を敏感に察知し、ますます怒り心頭で素手のまま飛びかかってこようとした。
勝千代の護衛はしっかりとその周辺を固めている。素手の狂人の手が届くはずもない。
さっとその前に立ちふさがったのは谷だ。
目測で軽く二十センチは身長差があるのに、勢いに任せた特攻は亀千代が土間に叩きつけられることであっけなく勝敗がついた。
酷い落とされ方だった。ゴキリと骨が折れるような音もした。
亀千代が雑魚すぎるわけではなく、単純に小柄な谷を見くびったのだろう。
悲鳴もなく、ドクドクと血を溢れさせながら失神した庶子兄は、父よりも兵庫介叔父によく似ている気がした。
亀千代の狂態に唖然としてた伊勢家の兵たちは、たいした抵抗もなく次々に捕縛されていった。
見せかけは立派だが一度も使ったことがなさそうな真新しい槍をあっけなく取り上げられて、初めて状況を察したような顔をする。
普通反射的に対抗しようとするものじゃないのか? まさかこちらが逆らってくるとは思ってもいなかった?
ともあれ、派手な装束を身にまとっているだけの、見せかけだけの武士だったようだ。
勝千代の側付きだけで簡単に全員を行動不能にできた。
「何を」
ひとり放置されていた湯浅殿が、何もかも終わってからようやく口を開く。
失神どころか、下手をすれば致命傷の亀千代に駆け寄ろうとする素振りを見せたが、周囲からの冷ややかな視線に足を止める。
今更驚いた風に周囲を見回し、自身らの倍どころではない軍勢に囲まれている事に改めて気づいたようだ。
「これはどういうことでしょうか」
事ここに及んで、本気で言っているのか?
勝千代はこわばった湯浅の顔をまじまじと見て、軽く首を傾けた。
「留守宅に無断で上がり込んだばかりか、この狼藉振り。非礼に礼を持って返す必要が?」
先程の大きな音は、正面玄関口の脇の木戸を破壊した音だった。
あんな頑丈そうなもの、どうやって倒したんだ?
「お初にお目にかかります」
そう言って頭を下げたのは、既視感のあるキノコ顔だ。
この一族の顔は強固に遺伝するものらしい。細面で常に笑ったような目と唇。息子たちより若干シルエットが丸いが動きは敏捷で、年齢の割には十分にかくしゃくとしている。
還暦を越えた年のキノコ顔は田所兄弟の父親で、現在の江坂屋敷の家宰だった。
志郎衛門叔父の妻子もすでに遠江にいるが、ここと同じく屋敷を無人にするわけにもいかないと、幾人か残っているらしい。
「田所らの居場所はわかったか?」
いかん、みんな田所だった。
思い直して「弥七郎」と言い直す。この田所父の名だ。
ちなみに弟の方は又八郎というのだが、兄はこの男と同じ弥七郎だ。ややこしい。
「愚息どころか、同行しておりました者共も消息が分かりませぬ。手がかりは多少ございますので、時を頂ければ探し当てます」
「猶予はない」
目と鼻の距離にいた者が何も気づいていないのなら、そもそも駿府を離れていないか、伝える間もないほどの緊急だったか。
まったくもって消息がわからないのは、興津と同じだ。
「手がかりとは?」
渋沢の問いかけに、田所父は無言で湯浅殿を見た。
湯浅殿の表情がこわばり、顔から血の気が引いていく。
なるほど。
勝千代はひとつ頷いて、その為に田所父がここへ来たのかと得心した。
「事情を知っていそうな者に話を聞きとうございます」
「任せる」
「待たれよ!」
勝千代は、焦って声を上げた湯浅殿の表情をじっくりと観察し、この男が何かを知っている事を確信した。
それはそうか。たった五十名でここまできた伊勢殿にとっては、湯浅殿は信用できる配下のひとりだろう。
現に福島家掌握の目付はおそらくこの男なのだろうし、暴れ馬に困惑しているように見せかけて、適度な距離感で手綱を引いていたのは間違いない。
「それだけの数がいれば、誰かが何かを知っているだろう」
「よろしいので?」
「任せると申した」
今更取り繕っても仕方がない。伊勢家は敵だ。




