53-4 駿府 福島屋敷4
皆がざっと腰を浮かせた。
よりにもよってこの時期に、長綱殿が今川館にいる? 理由によっては、河東の大戦の意味が大きく変わる。
死んでいった多くの者たちは、マッチポンプ的に停戦ありきで戦ったのか?
脳裏に激しい剣戟や怒声が過る。真っ赤な血しぶきや臓物をばらまきながら果敢に戦った者たち。彼らの死が意味のないものだったと?
いや、そんな事は許さない。
協議の上の停戦合意ならまだしも、今なお命を散らしている者たちに「その戦いは無意味なものだった」などと、言えるわけがない。
ギリ、と手元で扇子がしなる音がした。親指で強く押し過ぎた故のその音に、朝比奈殿がさっとこちらを見た。
目が合って、普段から表情筋が仕事をしないこの男も、怒りを覚えているのが伝わってきた。
そうだ。勝手な思惑で戦が起き、その結末まで織り込み済みなのだとしたら、腹が立つで済む問題ではない。
停戦はしない。最悪その意思を通す必要があるのかもしれない。
停戦しなければどうなる? うまくやれば伊豆を取れるか。あとはじっくり相模を切り取る算段をする。先代の当主がやったことと同じだから文句も言えまい。
いや、落ち着け。
勝千代はあえて自らを宥めた。
重要なのはおそらく長綱殿ではなく、もう一人の方だ。
京にいるはずの伊勢殿が、御自ら下向した理由があるはずだ。そちらの方がもっと重大で、よく考えねばならない事案だ。
何故なら、勝千代が京を去ったころには、伊勢殿は三つ巴の次期将軍争いの真っただ中にあった。しかもおそらくは最も分が悪い。伊勢殿が何らかの事情で京に居れなくなり、都落ちの形でこちらに流れてきたのなら……
「……まさか義宗様もご一緒ということはないだろうな」
「まだ髪が生えそろっておらぬ御方ならばおられました」
勝千代は、こともなげな弥太郎の返答にさっとそちらを睨んだ。
飲み干した湯飲みを受け取り恭しく頭を下げた男は、「赤子というわけではございません」と、冗談にならない注釈を入れながらそのまま膝で後方に下がった。
ああ、わかってしまったかもしれない。
勝千代はぎゅっと強めに瞼を閉ざした。
視界がふさがるとぐるりと周囲が回るような、眩暈の症状に見舞われる。
きっと風邪だ。熱も出そうだ。長雨にあたりながらの長旅だったからな。
経験則から、そろそろ寝込む羽目になりそうだと危惧したが、今はそんな場合ではないと気力を振り絞る。
「伊勢殿はおそらく、政情不安定な今川を手に入れられるおつもりだ」
「いや、そんな事が出来るはずは御座いません」
渋沢の否定に、ゆるりと首を横に振る。
「今川家は、足利が途絶えた時には将軍を出せる家柄だ。その逆が通らないわけがない」
勝千代は呟くようにそう言って、表情を失くした者たちに視線を巡らせた。
「御屋形様は? 御無事だろうか」
義宗殿が今川家を継ぐなど、ひどく突拍子もない話に聞こえるかもしれない。
だが現時点での嫡男、上総介様に万が一のことがあれば、御台様腹の幼い弟君ではなく、一姫あるいは二姫あたりに入り婿という形をとって次期当主となる事は可能だ。
そうすれば、大軍を擁する今川家を思う存分使える将軍候補になり上がることができる。
彼らにとっては、間違いなく、起死回生の一手だろう。
「伊勢殿はどれぐらいの軍勢を率いて来られた?」
続けざまの勝千代の問いかけに、段蔵は軽く頭を下げた。
「申し訳ございません。今川館の現状については、なかなか探るのが難しい状況です。忍びに対する強い警戒をしております」
「風魔が去ってもか?」
その去ったというのも、長綱殿がいるのならば怪しいものだが。
「北殿の奥が探りきれません。警備が厳重だというのもありますが、誰ひとり表に出て来ないのです」
「誰ひとり?」
それはいくらなんでもおかしくないか?
「それから、伊勢のご当主が率いてきた兵はせいぜい五十ほどです。残りの五十は北条の兵です」
「……北条の兵が今川館の中にいるのか」
これはもう、先端でバチバチにやりあっている傍らで、本丸を落とされたと言ってもいいのではないか。
勝千代はぐいと目頭を揉んだ。あまりの惨状に情けなくなってきたのだ。
千どころか万の数での戦をしておいて、本丸がたった百に落とされたなどと、泣くに泣けない。
「……駿府を守っていた興津殿はどうしている? 清水に戻って来たのは五百ほどだった。中枢がまだ五百、いや八百ほどはいただろう」
「わかりません」
「わからない?」
「我らが駿府に入ったときにはすでに、主要な者たちの姿は消えておりました」
これは、全滅したと見て取るべきか。あるいは御屋形様や上総介様を守ってどこかで奮闘しているのかもしれない。
いや、御屋形様のあのご病状で、動かすことなどできるだろうか。
まさか北殿で立てこもっている? たかが百の敵を相手に?
段蔵が「わからない」と言ったのは、興津軍の残りの行方が分からないというのももちろんだが、状況があまりにも不明確だという意味もあるだろう。
確かにこれでは、「今川館に行くな」と、声を大にして言いたくなるのもよくわかる。
もやもやと考え込んでいると、どこか遠くでドン! と大きな音がした。更には怒鳴り声のようなものも。
人の家の玄関口で暴れている奴らがいるようだ。
勝千代は大きく息を吸い込んだ。
「もういいか」
その問いかけに、大人たちが意図を問うように首を傾ける。
「アレは敵で、もういいな」
ついでに言えば伊勢も敵だ。たった五十の兵で都落ちしてきた分際で、大きな顔をされては困る。
勝千代はすっと立ち上がり、手にしていた扇子を腹の前に差した。
「勝千代殿」
歩き出そうとする前に声をかけてきたのは朝比奈殿。
引き留められるか、落ち着けと諫められるかと身構えてその顔を見ると、やけにイキイキとした目で勝千代を見ていた。
「こちらをどうぞ」
差し出されたのは、たった今朝比奈殿が腰から抜いた鞘ごとの小刀だ。
華美ではないがしっかりとした造りの美しい誂えで、反射的に受け取ったその重さは手首にずっしりときた。
勝千代は思わずまじまじと朝比奈殿の顔を見返した。
「お守り代わりです」
小刀はやけに重いが、それ以上に重い声だった。
刀を預けられた意味を噛みしめ、無言で頷きを返す。
人の命を奪うことのできる刀の重みに、腹が据わった。




