53-1 駿府 福島屋敷1
豪雨の中、二千の兵を引き連れ駿府の町に帰参した。
大きな町だが、さすがに軍勢をそのまま入らせるわけにはいかず、いったん兵は町の外周部に待機させた。前からずっと朝比奈軍が陣を構えていた場所なので、兵を休ませるための設備が整っているのだ。
町は出陣した時と何ら変わりのない様子に見えた。
雨が強く吹き付けているので、日中にもかかわらず人通りは多くはないが、何か騒動が起こっているような雰囲気はない。
勝千代は用心深く周囲を見回し、そのあまりにも「何事もない」平穏無事さに、かえって強い違和感を覚えた。
この違和感のもとが何なのか、今川館に行ってみればおそらくわかる。
「いったん福島屋敷で支度を整えましょう」
そう言ったのは三浦藤次郎だ。どんな非常時にも常に落ち着いた男なのに、やけにピリピリと気が立っている。
いや藤次郎だけではない、勝千代の側付きたちは総じて険しい表情で、護衛たちはもっと露骨に殺気立っていた。
あまりにも何事もなく平穏なので、五百の兵を駿府の中に入れるのはやりすぎかと思っていたのだが、彼らの顔を見ればその考えも消えた。
「勝千代殿」
朝比奈殿に名を呼ばれ、白桜丸の背中から傍らを振り返ると、軽く目線で通りの向こうを示された。
雨除けの板が立てつけられた店の前にいるのは、佐吉だ。すっかり大店の総番頭の顔に戻っていて、勝千代を出迎える風体で丁寧に頭を下げている。
だがおそらく一同が見ているのはあの男ではない。日向屋の平番頭のふりをして、同じように頭を下げている商人のひとり……段蔵だ。
何故声をかけて来ないのか、報告があるなら直接来ればいいのに。
とっさにそう思ってしまうあたり、まだまだ諜報という面では素人なのだろう。
勝千代は無言で頷き返し、特に何か言うこともなく彼らの前を通り過ぎた。
ああ、嫌な感じだ。
そしてついに、勝千代はその不穏な気配の一端を掴んだ。
雨を厭うふりをして顔を俯け、その敵意を吟味する。
敵意、いや違う。憎悪だ。
とっさに思い浮かんだのは、兵庫介叔父の今わの際の顔だった。
そしてその悪意の主が誰かということを、勝千代はすぐに知ることになる。
福島屋敷の四つ足門が見えてきた。幸松らを遠江に避難させたので、その門を利用できる者はおらず、閂をかけ固く閉ざされているはずだった。
だがこの豪雨の中、四つ足門の大きな木の扉は全開になっていて、門のひさしの下には煌々と篝火が焚かれている。
「……父上ではないな」
「殿は派手なのは好まれませぬ」
藤次郎の冷ややかな口調で、この先に待ち受ける相手について、ほぼ確信に至った。
篝火の両脇には、誇示するかのように色鮮やかな錦の旗が飾られている。
その旗にくっきりと大きく刻まれた家紋は……丸に七枚根笹。福島家のものだ。
内心、幸松かとも思った。父も勝千代も不在なのだ、奮起して屋敷を守ろうとしたのかと。
だが幸松もお葉殿らもすでに高天神城に移っている。ここにいるはずはない。
父の実弟のうち、この家紋を使っていたのは兵庫介叔父だけなので、その線もない。
「留守宅に勝手に上がり込むとは」
土井の憤慨した声を聞き、「そうか、ここは怒るところか」とあらためて思った。
四つ足門をくぐったところで、きらびやかな装束の武士たちに長槍を突き付けられた。
勝千代は、いきり立ち刀に手を掛けようとした者たちを制した。
上がり框の上で待ち構えるのは、相変わらず金糸模様の高級そうな直垂を着た男……湯浅右馬允殿だ。
「無駄な抵抗はなさらないよう」
取り付く島もない口調だが、その目だけが何かを言いたげに見えた。
「……随分と物々しいですね」
勝千代はそう言ってから、「うっ」と口を手でふさいだ。
揺れる馬の背中から降りたとたんに吐きそうになったのだ。
風邪気味だというのもあるし、いまだに乗馬に慣れないというのもある。
だがそれ以上に、会いたくなさすぎる相手の顔を見た事へのストレスの方が大きいかもしれない。
濡れた羽織を脱ぎながら、下手をすると上官たる湯浅殿より偉そうな顔をしてこちらを睨んでいるのは……言わずものがな庶子兄、亀千代だ。
京で井伊殿を刺したあの出来事で、処罰とまではいかなくとも、堂々と表に出てくることはなくなるだろうと思っていたのだが。
よりにもよって今この時、一番見たくないタイミングでの登場だ。
「ここには来てはならない者もいるようです」
父がいないと思ったのか? 怪我をして臥せっていると聞いたのか?
勝千代の言葉に苦い表情をしたのは湯浅殿。亀千代は不遜な表情を浮かべて「養子風情が」と吐き捨てたが、呟きにしてはやけに大きい声だったので、この場にいる全員の耳に届いただろう。
まあ、勝千代が福島家の養子だというのは秘密でもなんでもない。
これまでは御屋形様の実子であることが大きく取りざたされ、あえてそちらを言い立てる者はいなかったのだが、確かに福島家嫡男としては成人年齢に達しているこの男の方がふさわしいのかもしれない。
あくまでも「年齢的には」だが。
そもそも父に福島家から追放された身だ。しかも福島姓を名乗ることができる身分でもなかった。ちなみに幸松も福島姓ではない。つまりは庶子なのだ。
「ともあれ御同行を。お付きの方々はご遠慮願います」
相変わらず忍耐の字を顔に張り付けたような湯浅殿が、改めて咳払いをしながら言った。
本人にはおそらく悪気はない。
だが、勝千代の気には障った。
いくら何でも、今川家譜代当主朝比奈殿を「お付き」とは。京でも顔を合わせたのだから、知らないはずはないのに。
文句を言ってやろうと口を開きかけて、また吐き気に見舞われ口を押さえた。
その様を見た亀千代が鼻を鳴らす。
辛抱や我慢でどうにかなるものではないのだから、子供の不調をそこまであげつらうなよ。
あまりにも苛々していたので、いっそこの場で吐いてやろうかとも思った。
「……ふ」
だがよく考えればここは福島家の屋敷だ。嫌な相手の為に自宅を汚すのも変な話だ。
勝千代は代わりに、思いっきり鼻で笑い返してやった。
「中村亀千代」
庶子の頃に名乗っていた名で呼ばれ、庶子兄の表情が強張る。
「父上のお許しなく帰参してもよいのか」
大体、勝千代が我慢する必要などないのだ。
福島家の嫡男は勝千代であり、当主である父が不在ならば、その代わりの全権限を握る立場にある。
自称「福島」亀千代に自由にさせる謂れなどない。




