52-10 清水湊3
会うつもりはなくとも、始末は付けなければならない。
一応遠くからでも様子を見ておくかと立ち上がろうとして、くらりと眩暈がした。
長く濡れたままでいたので、風邪を引いたのかもしれない。ずいぶん丈夫になってきてはいるが、まだまだ虚弱体質のままなのだ。
眩暈は一瞬だったので、誰に気づかれることもなかった。
叔父のところへ行くと言わずとも、察してくれる側付きたちが、これ以上濡れないようにと蓑を用意してくれる。
大人用のサイズなので随分と大きく、足首あたりまで丈がある。身に着けると「蓑を巻いている」というよりも「蓑に埋もれている」状態になった。まあ、仕方がない。
宿にしている商家を出ると、相変わらず雨は強いが、外はうっすらと白んでいた。
浜辺の町らしく潮騒が強く耳に届き、まだ激しく時化ているのがわかるが、風はいくぶん弱まっているような気もした。
それでも相当の豪雨なので、うつむき加減に飛沫から顔を背ける。
案内されたのは、通りをふたつほど挟んだ海に近い場所で、そこはもとは陣屋として使われていた建物だそうだ。
かろうじて屋根が残った吹き曝しの火事現場という感じで、素人目でも倒壊危険だとわかる。柱が頑丈なので問題ないのかもしれないが……いやこれは立ち入っては駄目だろう。
「無礼であろう!」
ざあざあ雨が降り注ぐ中、そう怒鳴る声の主も勝千代と全く同じ意見のようだった。
わざとだよ、とは誰も言い返さない。
捕縛の命令が上から降りているとはいえ、扱いに困るお偉いさんだということは確かで、こういう相手はまともに取り合わないのが正解だ。
喚こうが叫ぼうが恫喝しようが、雨の方が気になるとばかりに聞き流され、遠目にも叔父が真っ赤になって激怒しているのが伝わってくる。
「いらしたのですか」
そう言ったのは、笠をかぶった朝比奈殿だ。
「こちらで適度に始末しておきましたのに」
始末、という言葉の不穏な響きにひやりとした。……今川館に送るように拘束しておくという意味だよな?
「勝千代殿はいずこか! 隠れていないで出て参れ!」
「この海に放り投げれば、波がきれいに片付けてくれるのでは」
辛辣な口調でそう吐き捨てるのは三浦藤次郎。
「生ぬるい、首を刎ねて里見衆の屍に混ぜてやればよい」
聞こえているぞ、谷。
誰もがあの叔父の存在に「もう結構」という感じなのだろう。
勝千代自身、まったくもって同感だったが、何故興津家の重臣ではなく叔父が大将としてここに来たのか、いやそもそも何故大手を振って自由にしているのか、そのあたりはきちんと聞き取り調査する必要がある。
「興津の雑兵どもは、詳しいことは何も知らぬようです」
朝比奈殿のその言葉に、やはりなと息を吐く。
下っ端が上の事情など教えてもらえないのはどの時代でも同じだ。
だからこそ連れて来られたのだろう。漏れる情報がないとわかっているからだ。
せめて今川館の内情なり聞いている者がいないかと、軽く聞き取り調査をさせたのだが、手掛かりなしか。
つまり、事情を知ろうと思えば、陣屋とは名ばかりのあばら家で喚いている、あの男の口を割らせなければならない。
だが聞き出せる情報があるにせよ、それに手間をかけている時間が惜しかった。
ここまでくればもう直接駿府に向かう方が早いからだ。
仮に、仮にだ。今川館で騒動が起こっているのだとしても、二千の兵に解決できない類の問題であれば、今ここで何ができるわけもない。
「……捕縛して、誰とも接触させぬよう隔離が妥当かと」
やはりそれしかないな。ここで勝手に「始末」してしまうと、後々その事が問題にされることはわかりきっている。
朝比奈殿の至極残念そうな口ぶりに、勝千代はもう一度ため息をついて頷きを返した。
ところで、兵庫介叔父の取り調べをしていたはずの田所はどうしたのだろう。
あの男に限って、おめおめと容疑者を手放すとは思えない。
田所だけではない、あの尋常ならざる文官(?)集団がついていて、なおこの状況だ。
「早く今川館に帰還するべきですね」
やはり結論はそれしかなく、この雨でも聞き取れるほどの声量で叫んでいる叔父に顔を顰める。
朝比奈殿も嫌悪の表情を隠しもせずに同意した。
「はい」
「嫌な予感しかしません」
「同感です」
勝千代はお互いに頷きあってから朝比奈殿と別れた。
既にもう全軍移動の準備にはいっている。朝比奈殿には仕事が山ほどある。
勝千代は雨の中遠ざかっていく後ろ姿を見送ってから、もう一度叔父に視線を戻そうとした。なんとなく。なんとなくだ。
「勝千代様!」
その警告の叫び声が聞こえた時、また刺客かと身構えたものの、正直それが叔父だとは思わなかった。
だが護衛らが立ちふさがるまでの一瞬の間に、夢にまで出て来そうな悪意の形相が瞼に焼き付いた。
武装解除されているはずの叔父は、何故か手に刀を握っていた。
叔父を拘束しているはずの者たちも、何故かこちらに向かって駆けてくる。
いや、何故かではない。
侵入していた敵が、今がチャンスだと叔父をその気にさせたのだろう。
「鬼子めぇぇぇぇっ」
雨の音がすべてを吸い込み、叔父の怒声も遠くまでは伝わらない。
今勝千代の周囲にいるのは五人。側付き二名に残りは護衛だ。確かに、日中軍勢に取り巻かれている時よりはずっと身辺に人が少なく、狙い目ではあったのかもしれない。
だが護衛の上げた声に、少し距離があるところにいた朝比奈殿が振り返る。
通りを挟んだところで兵に指示を出していた渋沢もこちらに顔を向けている。
雨が降っていて、薄暗くて、視界が悪いが、この場にいた者たちの目にははっきりと、数え十の子供に向かって殺意をむき出しにする男の顔が見えているはずだ。
ああ、死んだな。
勝千代は無感情にそう思った。
自身のことではない。長年勝千代を悩ませてきた兵庫介叔父が……だ。




