52-9 清水湊2
軍艦には船を動かす用の乗組員を残すものなので、兵を失っても逃げ帰ることは出来なくもないのだが、今回ばかりは無理だった。
陸に向かって吹き付ける強風は、船にとっては鉄の足かせも同然だ。
動かせない足で逃げる事は出来ない。
今の時代の軍艦が、鉄砲や大砲を積んでいるわけではないのも大きかった。
降伏勧告に素直に従ったのは四分の一ほど。残りは抵抗しようとしたが難なく制圧。何隻かは無理をして出航しようとして、あえなく波間に沈んだ。
清水湊に停泊していた里見水軍の軍艦は、関船が二十隻に小早船が三十隻。
大型船であれば耐えることができるかもしれないが、小さな小早船でこの高波をしのぐのは無理だ。
漕ぎだしたはいいものの、座礁するまでもなく、大波に呑まれて転覆してしまった。
米は無事回収できた。
いくらかは自滅を選んだ船ごと沈んでしまったが、降伏した船の積み荷のぶんは取り戻せたし、日向屋の商船も無事だった。
里見衆は大型商船を拿捕して積み荷ごと奪う算段だったらしい。
兵を積んだ船に重い荷物を乗せるより、荷物を大量に積む目的で作られた商船のを使う方が効率よく米を持ち帰ることができるので、そうしようとした理由はわからなくもない。
だが、そういうことがまかり通ると考えているのなら、逆もまたしかり。遠慮はしない。
拿捕した里見水軍の軍艦は、乗組員を全員下ろしてそのまま興津家に下げ渡した。
売り払うにせよ、再利用して軍艦として使うにせよ、好きにすればよいと言うと、里は感極まったように涙ぐみ言葉もなく頭を下げた。
勝千代がもらっても仕方がないというのもあるが、それ以上に、今回の件で興津家が被った被害の補填になればと思う。
人的な被害はどうしようもないが、それ以外のところでのフォローはするべきだろう。
彼らがいなければ、清水湊はもっと早くに落ちていた。
そして、嵐が来るより先に根こそぎ米を奪って去っていただろう。
興津衆の、しかも主力ではない残存の者たちが、最後のところで踏ん張ってくれたからこそ勝千代たちは間に合ったのだ。
いや、間に合ったというのは違うな。
そもそも清水湊に兵糧をためて置かず、早々に安全な内陸部に移動させておくべきだった。その事に思い至らず、背後に隙を見せたミスのあおりを食ったのが興津家だ。
甚大な被害を出しながらも、ギリギリ挽回できるよう尽力してくれた彼らに、勝千代の裁量で渡せるものがあってよかった。
「勝千代殿、少しよろしいでしょうか」
まだ豪雨が止まず、しかし東の空が若干明るくなってきた早朝。
勝千代は焼けずに残った商家のひとつを宿にして、長い夜をようやく終えようとしていた。
ここまで戻ってくれば、駿府は目と鼻の先だ。
一度休憩をしてから明日昼頃にでも向かう予定だった。
すでにもう寝間の隣で、乾いた着物に着替え、こんな時でも不足なく替えを用意している有能な側付きたちに感心しながら、与平から受け取った薬湯をチビチビすすっている最中。
廊下からかけられた声は、朝比奈殿のものだ。
目配せすると土井が頷き、そっと襖を開けると、まだ濡れた小具足姿のままの朝比奈殿が丁寧に頭を下げた。
「駿府からの兵が到着しましたが……」
が……って何。また何かトラブルか?
里見衆の生贄にされる予定だった兵らが、夜明けを待たず到着するということは分かっていた。おそらくは今川館にいた興津衆の一部だろうから、出迎えるようにと指示を出していた。
国許が無事だとは言えないが、今は手薄な今川館のほうに急ぎ戻ってもらう予定で、彼らと顔見知りだという渋沢に伝言を任せたのだが……
いやいや、問題を起こしたと疑ってかかるのは良くない。
戦場では猪のように突進していく渋沢だが、もう何年も今川館にいるので、彼らとはそこそこに親しいはずだ。
「今川館に戻る必要はないので、急ぎ河東に向かうようにと」
「……何?」
思いっきり胡乱な声が出てしまった。
朝比奈殿が謝罪をするように頭を下げた。いやこの男が悪いわけではない。
「大将は福島兵庫介殿です」
「はぁ?」
零れ落ちたのは胡乱どころではなく、真っ向否定の声だった。
兵庫介叔父は今川館で厳重に監視され、取り調べの為に監禁されているはず。何故大手を振って兵を率いているのだ。
朝比奈殿も同意するように何度か頷いて、更に言葉を続けた。
「薄情な興津殿が動こうとせぬので、代わりに来たのだと言うております」
ますますわからない。
「……兵五百でしたか?」
「かろうじて五百でございます。興津衆だということは確かなようですが、戦慣れしているようには見えません」
敵兵千三百が待ち構えるところに、経験不足な興津衆の兵だけを連れてきた?
まさか全滅目的ではないだろうな。
「勝千代殿に会わせろと仰っておられますが」
正直会いたくない。いや、会う必要性を感じない。
もちろん言われるがままに河東に引き返すことなど問題外だが、放置しておくわけにいかないのも確かだ。
勝千代は少し考え……いや、考えるまでもなく結論を出した。
「会うと言えば乗り込んでくるでしょう。その時に捕縛しましょうか。無傷である必要はありません」
「……よろしいのですか」
叔父ということだけではなく、御側室松原殿の実父であり、恵探様の祖父だということを気にしているのだろう。今更だ。
「御屋形様の許可があってここに居るとは思えません」
勝千代は、寝ようと思っていた臥所に未練の一瞥を投げかけてから、立ち上がった。
「それよりも急ぎ今川館に向かわねばならないようです。我らを戻したくないというのには理由があるはず」
興津と連絡が取れない、この非常時にも国許の様子を見に来る気配もない。
これだけ駿府に近いところまで戻っているのに、段蔵や弥太郎からの連絡がないのもおかしかった。
間違いなく、何かが起こっている。




