52-8 清水湊
ならばするべき事はひとつだけだ。
勝千代はちらりと荒れた海に目をやってから、泥水につくほど頭を下げている里に視線を戻した。
「心してみておけ」
誰がどう聞いても子供の声だ。
だがその場にいる誰もが、里や捕らえた里見衆ですら、呑まれたように黙っていた。
「仇はとってやる」
ゆっくりとそう言って、額に垂れた滴を無造作に拭った。
今勝千代の心の中にあるのは、怒りや焦燥とは少し違う。
人権など欠片も存在しない戦国の世では、非力なものが傷つけられたという怒りは共感を得ない。
だが仲間、同胞に降りかかった災禍を振り払うのだ。
不当に奪われたものを取り返し、命の対価を支払わせる。
それは紛れもなく、戦国時代の武士の考え方だった。
夜に紛れて静かに動く。
約二千の軍勢にしては素早く、派手な鬨の声も足を踏み鳴らす音もたてず。
おそらくはまだ誰もその存在には気づいていない。
何故なら嵐の夜に船乗りが気にするのは己の船の無事であり、里見軍がもっぱら注視しているのは駿府の方角だったからだ。
彼らがこちらに無防備なのは、この嵐で難所を通ってくる大軍などないだろうという固定観念と、念のために関所に張り付かせておいた見張りから何の報告もないからだ。
河東で大軍同士が激突する大きな戦いが起こっているというのも理由のひとつだろう。
決戦前に兵を減らし、引き返してくるはずはないという確信もあったのかもしれない。
更に間がいいことに、駿府のほうから兵が出ていた。
状況を調べるためという、先鋒的な意味合いが強いだろうが、与平によると五百の兵が駿府を出てこちらに向かっている。
おそらくだが、その情報を里見衆に知らせたのは北条家の風魔忍びだ。
いざそれに対峙するために、彼らは船から降り陸で陣を構えていた。
五百対千三百なら、十分に対応可能だと思ったのだろう。
「陸に上がってしまえば、水軍だろうとただの雑兵」
そう言って含み笑った朝比奈殿も、「応」とうなずく今川軍の面々も、それからもちろん勝千代も。
全員がずぶ濡れで、たった今水辺から上がったかのような有様だった。
だがしかし誰ひとりとして士気が低い者はおらず、むしろ湯気が立つほどに意気が高い。
朝比奈殿の言う通り、里見水軍が恐れられているのは、機動力に特化した軍艦を多数所有しているからだ。
陸を行くしかない歩兵と違い、海沿いの町であれば大抵の場所に兵を送る事ができる。不測の事態が起こっても、海に逃れてしまえば追ってくることができない。
だがそれらすべての利点は、海からの圧倒的優位にたった攻撃、という一点に特化したもので、いったん陸に上がり、今回のように容易に沖に出る事のできない天候に見舞われ、更には圧倒的多数に囲まれてしまえば……詰みだ。
今川軍には、負けるはずがないという余裕があった。
目の前にいるのは、いまだこちらの存在に気づかず、無防備な背中を向けた自軍の半数ほどの歩兵。
勝千代が口にした「天が味方している」という言葉が、否応もない結果としてそこにある。
ぴかり、と空が光った。
これまでと違うのは、轟く雷鳴とほぼ同じタイミングだということだ。
勝千代は、耳をつんざく落雷の音にも動じない白桜丸にまたがり、里見軍を見据えた。
豪雨の中、ばさりと広がったのは濡れた旗指物。朝比奈殿の馬印。今川家の白地に青の旗がこれ見よがしにいくつも、一気に悪天候の中を舞った。
「かかれ!」
所詮は子供の声だ。きっと遠くまでは届かない。
だが、まるで訓練でもしたかのように、全軍が一斉に力強い怒声を上げた。
真っ先に飛び出していったのは……黒い鎧が闇に溶け込むような渋沢。
またお前、一番槍か。
勝千代は、混乱する里見軍に突進していく黒い鎧兜の男を、呆れ半分、生き急ぎ過ぎだと心配半分で見送った。
今夜は月のない嵐の夜だ。
時折空が光る以外は、本当に何ひとつ光源がない状況で、混戦になってしまえば敵も味方も判別できない。
本来そういう時の為の旗指物であり、味方だと証明するための何がしか目印なのだが、そもそもこの状況ではどれだけ役に立つのか。
勝千代は最後まで渋沢の後ろ姿を見失うまいと目をこらしていたが。少し距離が開いただけでまったくわからなくなってしまった。
いまだかつてないほど前線が近い。
だが、傍らで泰然とかまえる朝比奈殿の存在と、パタパタと尻尾を振る余裕すらある白桜丸のおかげで、長久保城にいるときよりずっと精神的には余裕があった。
恐怖がないとは言わないが、切っ先すら届かないという確たる自信がある。
目指したのは、里見本陣と清水湊との分断。
突進した先鋒隊には、素早く里見軍の背後を塞ぐよう指示している。
駿府からの五百を迎え討とうとしていた里見軍は、前後を挟まれた形になりたちまち浮足立った。
町中での混戦を避けようとしたのだろう、若干湊から離れていたのも、こちらの有利に働いた。
結果が出たのは、開始からおよそ一時間。……いやそれよりも早かった。
豪雨の中、すべてを薙ぎ払う勢いの強風と、激しく打ち付ける波音と。
聴覚はすでにそれでいっぱいいっぱいなのに、その合間を縫って怒涛のような鬨の声が響いた。
えいえいおー
誰かが叫んだその一声が、たちまち全軍に伝播する。
えいえいおー、えいえいおー
そこかしこで上がる歓声と足踏み。ものすごい笑顔でこちらを振り仰ぐ兵士たち。
勝千代は、無意識のうちに詰めていた息を吐いた。
歩兵を潰してしまえば、あとは米を回収するだけだ。
幸いにもまだ風は止まない。
船は港を出港することができない。




