52-6 駿東 由比2
西の空が暗いから、明日は雨かもしれないと思っていた。
だが予想していたよりも早く、完全に夜が来る前に大気は湿り気を帯び、波が大きくうねり始めた。
見下ろした波間は白く泡立ち、山肌に直接打ち付ける勢いは強い。
「本降りが来そうですね。屋根の下へ……」
「見ろ」
藤次郎の言葉を遮り、勝千代は西の水平線を指さした。
びゅうと強い風が頬を打つ。
春の風は冷たくはないが荒く、頬に飛んだ湿り気は雨ではなく強い塩の味がした。
「船じゃないか」
晴れている昼間ほど空と海との境目がくっきり見えるわけではない。
だがちっぽけな小石のかけらのような、毛色の違う色味のものが確かに見えた。
見間違いではない。清水湊がある方角よりももっと海側、大海原の真ん中に、ポツンとシミのように白いものが浮かんでいる。
悄然と項垂れていた佐吉が、ガバリと身を起こした。
「……あれは」
勝千代の目には小さな点でも、忍びの目には何かが見えているのだろう。
しばらくして、興奮したように勝千代を振り返る。
「日向屋の貿易船です。ご覧になってください! 後方の帆柱の上に赤い布が垂れております! あれは、あれは……交戦中の合図です」
いや、見えないって。
必死の形相でそんな事を言われても、勝千代の目にはただのぼやけた点だ。
「こちらからも合図を! のろしを焚かせてください‼」
佐吉が珍しく強い口調でそうまくしたて、勝千代が「のろしか」と思った瞬間、突風が海から吹き付けてきた。
いつの間にか波音が激しくなり、大粒の雨も降り始める。
そして、あっという間に小さな点は見えなくなった。
吹き付ける豪雨のために、視界が極端に悪くなったのだ。
皆で急いで休憩用の小屋の軒下に入ると同時に、ゴロゴロと雷が鳴りはじめた。
この雨風が収まるまでは、のろしを焚くのは無理だろう。向こうからも、こちらの様子は見えないはずだ。
そう言おうと佐吉を見上げ、雨でびしょ濡れのその痩せた顔が絶望で歪むのを見た。
「……ああ、そんな。関船二隻に追われています。乗組員が少ないので切り回しができないのでしょう」
だから、見えないって。
佐吉が何を見てそう言っているのかさっぱりわからない。
勝千代の目には、大荒れの暗い海しか見えないからだ。
だが不意に、ピカリと空が光った。
雨が止んだわけではない。それなのに、周辺の様子がやけに鮮明に視覚に刻まれた。
水平線のあたりに帆船が一隻、親指の爪ほどの大きさで見えた。
先程は小さな点だったのに、すでにもうはっきり二本マストの大型船だと判別できる。
気のせいでもなんでもなく、瞬きする間にもどんどん近づいてくる感じがした。
強い風がごうごうと音を立てて吹き付けてくる。ばたばたと旗が揺れ、勝千代の直垂の袖もまくり上がる。
海から陸に向けての、かなりの強風だ。不可抗力で陸の方に押し流されているのかもしれない。
そんなことを考えている間にも、大型の商船と、それより二回りほど小ぶりな関船が二隻、勝千代の視力でもはっきりそうとわかるほど、陸に近づいていた。
大型船は喫水が深いので、陸に近づきすぎるのは危険だ。関船はそれよりも小ぶりだから、きっと喫水も浅い。
このまま陸によってくれば、先に危ういのは商船のほうだろう。
風雨がますます激しく、視界が悪くなる。
もっとよく見ようと身を乗り出したところで、両腕を土井と南に掴まれた。
軒から出ると雨にあたると言いたいのだろうが、すでにもう上から下までびしょ濡れだ。
この頃になると、甲板の上の人間の様子ですらもわかるようになってきた。
どう見ても商船のほうの人数が少なく、関船、つまり里見海軍の軍艦のほうがしきりに矢を射かけ、接弦しようと迫っている。
「……何とかならないか」
そう思っているのは勝千代だけではないだろう。
だが、どんなに近くに見えたとしても、そこに行くまでには深い海が横たわっており、陸からは見ているだけしかできない。
風が強い。
ずっと目を見開いていると、塩で目がひりひりしてくる。
「……あっ」
与平が小さな声を上げた。
思わずそちらを見上げると、傍らの佐吉が口元に手を当て小さな目を極限まで見開いている。
正直な所、彼らが見ているものが何かなどわからない。
だが、商船の帆がバサリと急に向きを変えた。舵でも切ったのだろうか、素人目にもわかるほど船尾が陸の方を向く。
同時に、並走していた関船に船首が接触した。
豪雨と強風と時化の波の音と。
聴覚を埋め尽くすのは自然の猛威だけなのに、バキバキと木材が裂ける音が聞こえた気がした。
外洋を行く頑丈な帆船とはいえ、和船は和船、確か竜骨がないから衝撃には弱いと聞いた気がするのだが。
「……ああいうの、ありなの?」
「とんでもない!」
勝千代の無意識の問いに、速攻で否定してきたのは佐吉だ。
どの時代でもどの国でも、船舶は高級品のはずだ。少しの歪みやひびでも船は沈む。
大海のど真ん中で海に放り出され、命だけではなく貴重な交易品を失うことを思えば、高級車のバンパーを擦る程度の接触も避けたいはずだ。
「次郎三郎め!」
目がいい佐吉は、この暴走(?)の犯人が分かっているようだった。
拾ってやった恩を……だの、誰だあいつに舵を許したのは……だの、ぶつぶつ文句を言い続けている。
「一隻潰れたぞ」
二回りも大きな商船の船首を、関船はその柔らかい船腹で受けた。
それは無謀な衝突だったが、結論としては関船一隻を修復不可能なほどに破損した。
商船の方が無事なのかは、勝千代にはわからない。
「……沈みます」
寸前まで激怒していた佐吉が、呆然としたように呟く。
目に見えて関船が傾いている。甲板から荒海へと、ばらばらと船員たちが投げ出されていく。
もう一隻の関船は、この状況をどう判断したのだろうか。
投げ出された者たちを救おうとしたのか、この隙に接近している商船に乗り込もうとしたのか。
とにかくその攻撃の手が止まり、ざぶんざぶんと荒波に船体が上下する。
更には。
「……燃えていないか?」
「いや、この雨だぞ」
見ごたえのある海戦を、特等席でつぶさに見ていた者たちが、もう一隻の関船を指さしながら騒いでいる。
だが確かに船のどこかから煙が立ち上っている。炎の色は見えない。
「油の樽に火をつけて、投げ込んだんじゃないか」
商船の方が背が高いので、上から物を投げ込むのは簡単だ。天気が良ければ、木造船なので松明のように燃え上がっていたのかもしれない。
皆が商船の奮戦を激励する中、勝千代は別のことが気になっていた。
商船が船首を外洋の方へ向けた意味と、吹き付ける風の強さだ。
雨はますます強くなる。土地柄かもしれないが、吹き付けてくる風もやけに強い。
商船は船の向きを陸から離れる方向に向けている。それでも、風向きが悪くて、近づいて来た時のような速度では離れていけない。いや、その場で停滞していると言ってもいい状況だ。
「……ああ、なるほど」
しばらくその状況を観察してから、得心の声を上げた。
ほぼ同時に、声にならない悲鳴のような動揺が周囲に走る。
関船の船腹からいくつもの艪が出ていて、懸命に漕いでいる。風を受ける帆は落とし、急いで陸から離れようとしている。
商船を操る者はよほどの腕利きなのだろう。座礁するギリギリのところまで関船を誘導したのだ。
案の定、商船を拿捕することに夢中になった関船は、陸に近づきすぎうまく方向を変える事が出来ずにいる。
「……出立の準備を」
えっ、という風に側付きたちがこちらを見る。
「潮が引き始め、通れるようになればすぐに発つ」
「ですが、この天候では」
「見よ」
勝千代は、今にも座礁しそうな関船を指さした。
「この嵐が清水の火を消し、里見水軍を湊に留め置いてくれる」
勝千代の言葉に、大人たちがはっと息を飲んだ。
全員がそろって、少し沖へ出た商船と、いまだ必死に櫓をこぎ波風と戦っている関船とを見る。
「天が我らに味方している」
勝千代は静かにそう言って、見事な操船で難を逃れた日向屋の商船を見送った。
船舶についての知識は、海外の海洋小説程度です。
和船についてほとんど知りませんので、おかしなところがあれば教えてください。
この時代の船が、風上に向かって切り上がっていくことが難しいのは理解しています。
重要な部分は最後のところで、それを書きたいがための海戦でしたw




