52-5 駿東 由比
勝千代の想像、妄想? それが当たっていたとして。
間に合うか間に合わないかでいうと、おそらく間に合わない。
韮山城で兵を降ろした里見水軍が、そのまま夜の闇に紛れて清水湊を強襲したとするなら、最速だと五日、いや下手をすると十日以上も前になる。
船で駿河湾を横断するのは、伊豆半島をぐるりと迂回するほど難しくはないはずで、日数もそうかからないだろう。
興津家が湊に残しておいた残存兵はどれぐらいだろうか。もしかすると、壊滅させられているのではないか。
最悪の状況を想像して、顔から血の気が引く。
与平に一足先に様子を見に行かせたが、戻ってくるまで待つことはできなかった。
湊が燃えている。
遠くからでも、灰色の煙が大海原の際から立ち上っているのが見える。
もうすぐ夜になる。間が悪くも潮位はこれから満潮に向かう。兵を引き連れ駆けつける事は出来ず、暗い空に煙が上っていくのを指をくわえてみているしかない。
北条軍が勝千代を引き留めたかった理由はこれか。
一日、いやあと二日あれば、少なくとも千、あるいはその倍以上の兵が薩埵峠を越えていた。
湊が襲われると予想していなかったとしても、ここまであっけなくやられはしなかっただろう。
「勝千代様」
戻って来た与平は、様子を見に行っただけにしては煤まみれになっていた。
情報を持って帰るのが仕事だとわかっているはずなのに、どうやら町中まで潜入してきたらしい。
それについては言及せず、片膝をついて頭を下げた与平に声をかける。
「……ここから見えないが、やはり里見か」
与平は緊張した表情で頷き、はきはきとした口調で答えた。
「はい。兵を乗せた船で直接波止場に乗り付けたようです」
その船も大小合わせて三十隻はいたそうだ。
ずいぶんと多い。和船の種類とか大きさとかはよくわからないが、相当の人数で攻め込んだとみていいだろう。
「佐吉」
勝千代は、与平が煤まみれになっている原因なのだろう日向屋総番頭に声を掛けた。
先程から地面に突っ伏すように平伏して、死んだように動かない。
その身体は与平同様あちこち汚れ、険しい山の中を突っ切ってきたせいで着物があちこち破けている。
勝千代の前まで自力で歩いてきていたから、命にかかわるような怪我はしていないはずだ。ただ、この状況に酷い自責の念を覚えているのは伝わってきた。
「顔を上げよ。話を聞きたい」
「……申し訳ございません」
謝罪するべきはこちらの方だ。佐吉の本職が忍びなのか商人なのか定かではないが、今回は勝千代の依頼でせっせと米を運んでいただけなので、清水湊の状況に責任を感じる立場にはない。
「里見の兵はいかほどだった」
「千はおりました」
「米は運び出されたか?」
「湊の倉庫だけではなく……日向屋の商船も奪われました」
三隻来ていたあの大きな商船を全て? 外洋にも行けそうな、二本マストの立派な帆船だった。
勝千代はしばし言葉に詰まり、ぐっと地面の草を握りしめた佐吉を見下ろした。
「お力をお貸しください。奪われたままにしてはおけませぬ。奪われるぐらいでしたら、いっそ燃やして……」
普段は静かで大人しい男だ。忍びなので本質的には「無力な商人」ではないが、勝千代に見せるのは常に控えめでわきまえた態度だった。
そんな男の、血を吐くような懇願に、勝千代だけではなく周囲の者たちも痛ましげな顔をする。
だが無常にも、勝千代に言える事は少ない。
「あと三刻ほどは動けない」
「……はい」
満潮と干潮の間はおおよそ六時間。潮が引き始めて道が見えてくれば出立できるが、清水の湊まで軍勢を到達させようと思えばそれなりに時間が掛かる。
今から夜が来ることを思えば、最速でも真夜中の行軍、興津から清水の湊に到着するのは明け方になるだろう。
勝千代は、どんよりと重い雲が八割がたを占める西の空に目を向けた。
明け方までかけて、里見水軍は思う存分略奪できる。清水の物資をすべて奪い、町も燃やしつくして悠々と立ち去るのだろう。
「興津家はどうしている? あそこにはいくらか水軍がいただろう」
そう尋ねるのは渋沢だ。
佐吉はぐっと奥歯を食いしばり、震える息を吐いた。
「里見水軍が真っ先に潰したのは興津の船です」
「被害は」
「……多くは生き残っておりません」
全滅か。この分だと、湊の周辺に住まう人々にもかなりの死傷者がでているのだろう。
むごい事だ。だがこの時代、それは取り立てて珍しいことではない。
武田の野盗じみた襲撃と同じ。敵の富を奪い己のものにするのは「強者勝者の権利」なのだ。
勝千代はもう一度、煙の立ち上る水平線の方向に目を細めた。
人間が平地で見える範囲はおおよそ四キロから五キロだという。つまり清水の湊はそれよりも先だ。
だが立ち上る煙はまるですぐそこ、手が届きそうな距離に見えた。
このまま六時間待つのか?
浜を通らずに清水湊まで行く方法はないのか?
身軽な忍びですら苦労する道なき道を行くのは無理だとわかっている。
だがそれでも、相手の策にまんまと嵌り、間抜け面をして待ちづつけるなど我慢ならない。
「……駿府は気づいてないのか」
勝千代は、苛々と唇の端を噛みながらつぶやいた。
「そんなことがあり得るのか」
「興津殿は、今川館を離れる事が出来ません」
朝比奈殿は難しい顔をしてそう言い、何かを思案するように腕組みをする。
「手薄になった清水湊に攻め込むというのはうまい手ですが、駿府と清水の間は二里ほどです。知らせを受け取るまで四半刻といったところでしょうし、駆けつけるまでにそれほど時間はかからないはずです」
関口殿が興津と連絡が取れなくなったと言ったのは、今日昨日の話ではない。
もしかすると北条は、それだけ念入りに情報遮断を仕掛けているのかもしれない。
あるいは、知らせはどこかで握りつぶされている?
きな臭い。非常にきな臭い。




