52-3 駿東 興国寺2
「……婚姻同盟?」
段蔵の報告にしばし思考が停止した。
今川家からは御台様の御息女竹姫が、北条家からは左馬之助殿の御息女駒姫が、それぞれの嫡男の正室にという話が秘密裏に進んでいるという。
おめでたい話だ。これで両国の同盟はますます強固なものになるだろう。一か月前、いや半月前であれば、勝千代とてそう言って手放しで祝福したはずだ。
……だが今のこの状況で?
「どこから出た話だ」
「北条側に潜入している者からの知らせです。今川側がどう対応しているのかなど詳細はわかりませんが、具体的な顔合わせの日程まで既に決まっているようです」
「いつ」
「来月の初旬です」
丁度梅雨前の、気温が高くなり始める時期だな。いやいや、そんな事はどうでもいい。
柄杓を置いた段蔵が、胴丸の隠しから手ぬぐいを取り出して丁寧に勝千代の手を拭きはじめる。
勝千代は忙しく考えを巡らせながら、段蔵の手の甲にわずかに見える刃物傷をじっと見つめた。
この情報を得るための忍び衆の苦闘を想像し、また、慶事のはずなのに何故か秘されている理由へと思考が至った瞬間、勝千代の眉間が思いっきり寄った。
御屋形様は実母である桃源院様を切り捨て、河東の親北条派を追い払い、伊豆に手を伸ばした。
つまり、明確に脱北条の路線を望まれている。
そうだ、御屋形様ならばこの婚姻を是とはしないだろう。
いずれそうなり和解することもあるかもしれないが、今の段階で早々に和平に舵を切る事はないはず。
そんな中、どうやってこの婚姻同盟を推し進めようというのだ? 来月など、下手をすればまだ戦が続いている。伊豆の侵攻具合によれば、ますます北条との仲は拗れているだろう。
優位に立つ今川側に、和睦の為の婚姻を結ぶ利点はない。
むしろそれを強く望むのは劣勢にある北条方だ。
というのも、河東にいる北条兵の多くは、銭でやとわれた兵なのだそうだ。
何のことかと思うだろうが、この時代の雑兵の多くは、基本的にはそれぞれの将が治める土地の農民なのだと言えばわかるだろうか。
有名な話だと織田信長が、季節に関わらず兵を動かすために兵農分離を行った。
当時にしては画期的だったと学んだ気がするが、それよりも前からそういう考えはあったのだろう。
まあ確かに、京の周辺には大勢の職にあぶれた者たちがいた。それほど目端が利かなくても、ああいう連中を雇い入れれば、自領の農民を徴兵せずともいつでも戦ができると思いつく者はいるだろう。
難点は資金面なのだが、今川という太いスポンサーがいる北条家にとっては、さしたる問題ではなかったようだ。
それがいきなり、突き放されるようにすべての支援がなくなった。
兵を食わしていく為の資金が止められてしまえば、これまでのような兵力を保持できなくなる。
「……何が何でも、もう一度今川と手を結び直したいというところだろうな」
勝千代は乾いた両手を軽く握りしめ、ようやくわかったと、この状況の構図を察した。
銭があれば大概の事は解決する。それはいつの時代でも同じ。
北条は湯水のごとく注がれる潤沢な資金を元手に、相模武蔵へと兵を進め、領土を広げていった。
桃源院様は、御屋形様亡きあとのことを考え、親族であり同盟国でもある北条家を味方につけておきたかったのだろう。
御屋形様は、そんな状況を断とうとした。自身の死後、いつまでも食い物にされ続ける未来を否定したのだ。
これまでの今川と北条の関係が正しいかどうかはさておき、長年の二国のバランスは御屋形様の思惑により急激に傾いた。
北条はおそらく、その傾きを元に戻そうとしている。
どうやって? ……いい予感はしない。
例えば今、反北条の御意思を示す御屋形様がお亡くなりになれば、あとを継ぐのは上総介様だ。
後見には御台様が立つだろう。北条との兼ね合いもあるから、桃源院様も監禁を解かれ復権するかもしれない。
そして北条家と強固な婚姻同盟を結ぶ?
……きっとうまく行くだろう。そうだ、御屋形様さえいなければ、両家は元通りの密月関係に戻ることができる。
「弥太郎はどれぐらいで戻る?」
勝千代の問いかけに、井戸端で頭を下げたまま控えた段蔵からの返答はすぐには返ってこなかった。単純に駿府までを往復する時間を尋ねているわけではないからだ。
「段蔵もそちらに向かってくれ」
重ねて言うと、了承したように頭が深く下げられる。
「遅くとも三日で一度報告に戻るように」
「御意」
一礼して、腰を落としたままその場を下がろうとした段蔵を、軽く手を上げて引き留めた。
下げられ続けている顔にも傷があるのが見えた。
身なりに触りがあるというのは、返り血や段蔵自身の血で汚れた、という意味なのだろう。
苦労を掛けている。ブラック過ぎる福島家に、よく仕えてくれている。
「小太郎が相手やもしれぬ。十分に気を付けよ」
ねぎらうことすら時期尚早、だがいずれは報いようと思いながら危惧するところを告げると、これまで下げられていた顔がさっとこちらを向いた。
いやいや、段蔵があの男に劣ると思っているわけではないぞ! 違うからな!!
何も言われていないのに墓穴を掘りそうになり、言葉を飲み込む。
「……はい」
渋い声でそう答えられ、気まずくなって咳払いした。




