52-1 駿東 長久保~興国寺
弥太郎は人員不足を補うために諜報に出た。駿府方面だ。そもそも勝千代の側にずっと置いておくには惜しい腕の忍びなのだ。
その代役として、無言で薬湯を差し出したのは与平。
勝千代は何か話しかけようかと口を開きかけ、結局無言で湯のみを受け取った。
聞きたいことは山ほどある。村の皆は健在かとか、その顔の怪我はいつ負ったのかとか。
だが今はゆっくり雑談している時間はない。身支度も整い、出立する寸前なのだ。
一気に飲み下した薬湯は苦く、喉に引っかかる味だった。弥太郎の薬湯も苦いが、与平がつくったのも似たようなものだ。
だが弥太郎よりも優しいのは、すぐに口直しの白湯と甘味を差し出してくれたところだ。
甘味といってもカラカラの干し柿を細く切っただけのものだが、この時代で甘いものは貴重だ。何日、いや何十日ぶりだろう。
ひとつ目はあっという間に食べきってしまったので、ふたつ目は時間をかけて口の中でふやかすようにして味わう。
「……甘い」
甘いといっても、素朴な甘さだ。
遠い目をして、望めば何でも手に入った飽食の時代を懐かしむ。
再びの夜明け。
勝千代は薄明りの中、ブルブルと興奮して足踏みする白桜丸の首筋をそっと撫でた。
温かいというよりも、熱いほどの体温が手のひらに伝わる。
白桜丸は勝千代の手を撥ねつけるように首をひねり、やけに鼻息荒く、飾り紐のついたたてがみを振り回している。
この馬での単騎駆けは無理だと判断し、本日のタンデム役は逢坂喜久蔵だ。逢坂の嫡男の嫡男で、逢坂家のトレードマークの赤を控えめに身にまとっている。
祖父によく似たその容貌を見上げて、まだ意識が定まらない逢坂老のことを思った。
他ならぬ勝千代を守るために逢坂は死線をさまよっている。それについてどう思っているのかなど、実孫に問うほど無神経ではない。
勝千代は白桜丸に先にまたがり、轡を押さえてくれていた喜久蔵に無言で頷きを返した。
彼らの忠義を当たり前だとは思わない。
それにふさわしい者であるために、精いっぱいを尽くすのが勝千代のやるべきことだ。
「後のことはお任せください。御武運を」
そうはっきりとした声で言ったのは、岡部五郎兵衛殿。
勝千代が去れば、長久保城での最高責任者になる。
二十歳にも満たない若い将だ。すべての門を閉ざし籠城の構えを取るとはいえ、重荷でないはずはない。
それでも五郎兵衛殿の表情に不安はなく、むしろ意気高く興奮しているようにも見えた。
勝千代はそんな彼に向かって微笑み返した。まともな笑顔になっていればいいのだが。
「五郎兵衛殿も、御武運を」
もし北条軍が勝千代らを追ってくるなら、長久保城の真横を大軍が横切ることになる。途中で気を変えて長久保城を落とすことにして、この城の周囲で井伊駿河両軍との混戦になる可能性もなくはない。
勝千代にも、五郎兵衛殿にも、もちろん今川軍全体に武運が必要な時だった。
日が昇る。
箱根の山の上から、一筋の光がさして大地を照らす。
運命の一日が始まった。
総大将の務めもなく、実際に戦えるわけでもない。
勝千代に出来る事は、白桜丸に全身でしがみついて早駆けの振動に耐える事だけだった。
まずは長久保城から興国寺城まで、とにかく走る。
馬の速度はもちろん歩兵より早いのだが、この時代の軍はその歩兵が主力なので、そこを置いて先に行くわけにはいかないし、そもそも馬を長時間走らせることはできない。
とはいえ興国寺までは駆歩で四半刻、三十分の距離なので、そこだけは一気に駆け抜ける事が可能だった。
興国寺城でいったん馬を休ませ、歩兵たちが追いつくのを待つ。そこからは歩兵と速度を合わせつつ駿府へ急ぎ戻る予定だ。
行きには十日もかかったが、予定している行程はその半分の五日。最大限急いで駆けつけたとしても、到着するのは五日も後だ。
まだ正体も定かではない不安のもとは、すでに結末を迎えているかもしれない。
それでも、行かねばならない。
ゆっくり十日の旅路にすら疲労困憊だった勝千代が、それ以上の強行軍に耐えきれるかという問題はこの際無視した。
実際に背骨が砕けるわけでも、尻が四つに割れるわけでもない。
最悪気絶したまま担いででも、輿に乗せてでもいいから運べと命じてある。
そういう強い決意のもとに長久保城を出たのだが、駆歩という相当な速さででこぼこ道を駆け抜け、耐えに耐えて三十分。
見覚えのある興国寺城が見えてくるころにはすでに尻の感覚がなくなっていた。
だが、周囲の大人たちは平気な顔だ。
きっと勝千代の柔らかい尻とは違い、鋼鉄の板でも入っているに違いない。
「……釣れたようですよ」
すでに虫の息の気分で目を閉じていた勝千代に、そう声をかけてきたのは逢坂喜久蔵だ。
はっと息を飲み顔を上げようとしたがかなわず、白桜丸の首に全身を預けたまま皆が見ている方向に目をこらした。
長久保城はもはや視界には入らない。
だがそれでも、合流を目指す歩兵たちの後ろの方が、激しい戦塵で煙っているのは見えた。
「どうされますか」
逢坂よりも太い声でそう問われたが、すぐに声を出すことはできなかった。
返答に迷ったわけではない。単純に喉が張り付いたように乾いて声が出なかったのだ。
問いに対する返答は否だ。応戦はしない。
餌は餌の役割を全うするだけだ。




