51-8 駿東 長久保城2
庵原殿に会いに行った承菊が、つやつやとした表情で近づいてくる。悦に入っているのを隠そうともしないのはどうなんだ。
監視のためについていった南の辟易した様子を見るに、相変わらずの愁嘆場だったのだろう。
勝千代はそっと目を逸らした。
他人の楽しみをどうこう言うつもりはないが、もう少しこう……オブラートに包む方向でお願いしたい。
承菊は難しい顔をしているこちらの様子に気づいたようで、口角を上げたまま首を傾げた。
「何かございましたか?」
きょとんとした毒のない表情だ。腹の中のドロドロとしたものを微塵も感じさせない。
勝千代はその禿げ頭に思いっきり張り手をしてやったらどうなるだろうと、益体もないことを妄想しながら頷き返した。
「……知恵を貸せ」
「はあ」と、少々抜けたような声色の返答。
承菊は長身をアピールするかのようにまじまじと勝千代を見下ろし、周囲の男たちをぐるりと一周見回してから、再び首を傾けた。
その目が一瞬だけ、関口殿の上で止まったことに気づいた者はどれだけいるだろう。
少なくとも関口殿本人は気づいたようで、ぎゅっと眉間の皺を深くしている。
「今日明日で北条軍を相模に追い払いたい」
「無理では」
勝千代の端的な要望に、それの半分以下の端的な返し。
難しいことはわかっている。それでも、何か手立てはないか考えるだけは考えてみて欲しい。三人集まれば文殊の知恵というではないか。ここにいる三人どころではない皆の知恵を絞れば、なんとかいい策を思いつくのではないか。
承菊はこちらの真意を問うようにしばらく黙っていたが、やがてつるりと形の良い頭を微妙に前後に揺らしながら思案しはじめた。
「今日明日ですか」
そうだ。今日明日だ。明後日になれば遅いと、勝千代の中の直感が言っている。
「無理をせずとも、このまま囲い続ければ、いずれ勝敗はつくと思いますが」
それではきっと「間に合わない」。
たとえば夜討ちはどうだろう。補給の小荷駄隊を襲うのは?
長久保城の一室で、密談を繰り広げること数時間。
聞き耳を立てる輩は遠ざけたが、「何かをしそうだ」とは感じただろう。
奇襲を検討するならもっとうまく隠すべきだが、今回はむしろ、敵の注意を引きたかった。
「本当によろしいのですか」
話しがまとまった後、井伊殿が複雑そうな表情で尋ねてくる。
勝千代は離れていく関口殿と承菊の馬影を見送りながら、最後まで残った井伊殿に頷きを返した。
「かまいません」
「ですがそれでは……」
「気兼ねなく勝ちを取りに行ってください」
勝千代はまだ躊躇っている井伊殿を振り返り、まっすぐにその顔を見上げた。
北条が粘っている理由について、まだはっきりと分かったわけではない。
だが仲裁を待っているにせよ、何か事を起こそうとしているにせよ、時間がたてばたつほどあちらの有利になる可能性を危惧した。
北条が、潰されるのを待つつもりはなく、反撃の余地を残しているのなら、こちらも相応に対処をするべきだ。
「……勝千代殿がそうおっしゃるのであれば」
まだ不満そうだったが、最後は溜息と同時に同意してくれた。
具体的に何をするかというと、「押してダメなら引け」だ。北条の猛攻に耐えかねたように兵を引く。駿河衆らは南へ、勝千代らは西へ。井伊殿は北へ。
北条軍がどちらを追うか、あるいはその隙に撤退するかを見定める役目に井伊殿。
勝千代らは「引くふり」ではなく本当に兵を引く。残りのふたつが北条軍を挟み撃ちにする、あるいは背後からつく計画だ。
勝千代は、藤次郎から黒い漆塗りの軍配を受け取り、そのまま井伊殿の前に差し出した。
計画の性質上、勝千代は本陣総大将の役割を井伊殿に譲ることになる。
必然的に、軍功が発生したとしても勝千代のものにはならない。
それどころか、計画の内とは言い訳、兵を引くなど弱腰とそしられる可能性もある。
井伊殿が気にしているのはそのあたりだが、まったくもってどうでもよかった。
「何をためらうのです」
差し出した軍配をなかなか受け取ってもらえないので、「重いんだけど」と内心思いながらそう問うと、井伊殿は「はあー」とわざとらしいほど長い溜息をついてからその場で膝をついた。
「……必ず勝利をお約束致します」
「御武運を」
いや、本音を言えば負けなければよい。あまり気負わず軍配を受け取ってほしい。
それでもなお躊躇っている井伊殿の手に、子供には大きすぎる軍配を押し付ける。勝千代がさっと手を離したので、反射的に落とさないよう握り込まれた。
井伊殿は忘れているのではないか。勝千代はまだ元服もまだの身、一応このあたり一帯の指揮権を担ってはいるが、いうなれば陣代、今川軍全体の本来の総大将は名目上朝比奈殿だ。
どちらにしても、この軍功が勝千代のものになる事はない。
「怪我人を連れて行くわけにはいきません。岡部家の兵を残し、長久保城は門を閉ざします。後のことはよろしくお願いします」
「お任せを」
ふと、これまでとは違う何かを感じて、真剣な井伊殿の顔をまじまじと見下ろした。
まさかこの男が緊張している? いや、井伊家は今はそれほど大きくはないが、遠江を今川家が奪うまではそれなりの勢力を誇っていたと聞く。その当時から現役の井伊殿にとって、二千三千の指揮に不足はないだろうし、それが五千になろうともさしたる重みにはならないはずだ。
……いや待て。
やけにじっと見られるのを不思議に感じながら頷き返し、そのまま踵を返してしばらく歩いてから、勝千代は重大な事を思い出した。
そういえば井伊家は完全に今川家に臣従した一族ではない。それなのに、今川の軍配を手渡して良かったのか?
順当さを考えるなら、駿河衆の誰か、関口殿あたりに任せるべきだった。
だが無意識に信用したのは井伊殿であり、関口殿も承菊もそれに否やを唱えなかった。
いずれその件について、どこかから問題視されるかもしれない。
「お勝様?」
立ち止まった勝千代に、土井が訝し気に声をかけてくる。
勝千代は元来た道を振り返り、井伊殿がまだ片膝をついたままの姿勢でいるのを見て、「やはり何か変だ」と思いながら首を振った。
「………まあ、大丈夫だろう」
「はい?」
深く考えるのはやめにした。
ベストな選択をしたと信じよう。




