51-7 駿東 長久保城1
勝千代がじっと見上げると、関口殿はその場で片膝をついた。
たいして親しくもなく、よく知りもしない相手だが、見上げてくる真顔を見て深刻な話なのだと察した。
「……ここではできない話ですか?」
言外に、ここで言えないのなら聞かないと含ませると、関口殿がちらりと視線を向けたのは、承菊が消えた方向だった。
承菊に聞かれたくない話なのか? 駿河衆のこと? あるいは庵原殿のことかもしれない。
「今川館の興津殿と連絡がとれません」
何を言われたのか理解するまでに数秒。
勝千代はまじまじと関口殿を見下ろし、改めてさっと周囲を見回した。
今の会話が聞こえていた者たちが、顔色を変えてこちらを凝視している。
「……立ってください。少し歩きましょう」
勝千代は関口殿が立ちあがるのを待たず、忙しく頭を働かせながら踵を返した。
狭い城中で人目を完全に避けることは不可能だ。
だが、じっとしているよりは歩いている方が盗み聞きされる危険が少ない気がしたのだ。
勝千代は振り返らず、関口殿がついてきているのか確かめもしなかった。
「御屋形様と頻繁に連絡を?」
しばらく黙って歩きながら考え、やがてたどり着いた答えはそれだった。
「はい」
関口殿の返答は即座に返ってきて、勝千代はそれが意味することを苦々しく飲み込む。
「つまり駿河衆の動きを逐一お伝えしていたわけですね」
嫌味ではない。皮肉でもない。ただの事実確認だが、口調の苦々しさは隠せなかった。
御屋形様が駿河衆の動きをある程度知っているのは察していたが、事後の状況を忍びや内通者経由で伝え聞いているのだろうと思っていた。
それどころか、情報提供者は関口殿だ。つまりは駿河衆のトップに近い人物が、もしかすると事前に何もかも話していたのかもしれない。
もちろん、どの程度の内容を伝えていたのかはわからない。
ただ関口殿の立場としては、御屋形様にすべてを話すよう命じられたら断れないだろう。
河東の親北条派を追い出すことも。伊豆に兵を進めることも。ここで大きな戦が起きるということも。
何もかも、起きる前に御存知だった可能性が高い。
いやそれどころか、すべてが御屋形様の御意向であった可能性はないか。
勝千代はしばらく無言で歩いた。
背後から大人たちがついてきているのは足音でわかる。
だが関口殿をはじめ、誰も勝千代の思考の邪魔をする者はいなかった。
正直、腹が立つ。
起き上がれもしない体調で、いやはっきり言うと余命をも想像できてしまう病状で、いったい何をお考えなのか。
安定していた国境に火種をまき、いやそれどころか長年の友好国との決別だ。
ご自身の死後、今川家がどうなるか考えなかったのだろうか。
いや、今は過ぎてしまったことに腹を立てている場合ではない。
関口殿がこの件を勝千代に話したということは、よほどの非常事態なのだろう。
「最後の連絡はいつですか」
「韮山城を落としたとお伝えした時です」
勝千代は頷き、「それについてのご返答は?」と続けて問う。
「急ぎ長浜を落とし、湊を制するようにと」
的確な指示だ。何故駿河衆が長浜城を重要視しなかったのかはわからないが。
「韮山城を出てからも何度か報告を送りました。ここから駿府までですと遅くとも往復二日で返書が届くはずなのですが」
やはり風魔の情報封鎖だろうか。いや、駿河衆が伊豆国境付近に布陣してからも連絡がつかないというのはおかしい。
「最後に送り出したのはいつですか」
「昨夜です」
さすがに昨夜に出立した者が戻ってくるには早いが、関口殿の口ぶりだともう何人も送り出しているのだろう。
風魔に潰された可能性はもちろんある。
だがそれ以上に危惧するべきなのは、今川館の現状だ。
「興津殿にはすぐに接触せず、何が起こっているのかまずは確かめるようにと指示しましたが……」
「わかりました。こちらでも調べてみます」
関口殿の不安が伝わってくる。
勝千代も、ひどくぞわぞわとする不安が胸に渦巻いている。
この話を聞いていたすべての者が、多かれ少なかれ似た思いだろう。
勝千代は足を止め、「ふう」と一度息を吐いた。
万が一これが北条の策なら、すでに今川館で何かが起こっているのかもしれない。
「弥太郎」
「はい」
思いのほか近くから弥太郎の声がした。
ぎょっとしたのは関口殿だけで、その他の者は慣れているから驚かない。
「八郎殿のもとにひとり影供をつけさせた。佐吉のところの者だ」
「わかりました。協力して事にあたります」
弥太郎は相変わらずの軽装だ。重装備の武士のただ中にいると目立ちそうなものなのだが、常に気配が薄くて、声をかけて来てもらうか、意識して探さないと見つけることができない。
そんな彼の背後には珍しく配下の者がいた。若い男、いやまだ少年と呼べそうな年頃の子だ。
その者が顔を上げ、一瞬だけ視線が合った。
頬に大きな傷があるその者には見覚えがある。……与平? そうだ、幼いころに段蔵の村で親しくしていた与平だ。
その傷のこととか、久しぶりだとか、これまでどうしていたのかとか、口を付いて飛び出してきそうになるのを寸前で堪える。
「まずは何が起こっているのかが知りたい」
勝千代はそっと、かつて教えてもらったように、左手の人差し指と中指とを重ね合わせた。
一瞬だけ。そう、一瞬だけ。
長くそのサインをしてはいけないと言われていたのに、膝をついた与平の左手も同じ合図を作っているのを見てから、つい何度も薬指の爪を擦るように指を重ねてしまった。
「まだそうと決まったわけではありませぬ」
井伊殿が、何も気づいていない様子で言う。
勝千代はあえて与平のほうに視線は向けず、まっすぐに井伊殿を、ついで関口殿を見上げた。
「北条が時間稼ぎをしている理由が和睦ではないのなら、もしかすると駿府で何かをしようとしているのかもしれません」
あるいは、既に時遅しなのかもしれない。
「異変が起こっているのなら、ここでの戦を長引かせるわけにはいきません」
勝千代はそう呟き、北条軍が布陣する東の方向に視線を向けた。




