51-6 駿東 決戦2
何が問題かわからないままに、時間だけが過ぎた。
戦というのは、その期間が長くなればなるほど、一日あたりの戦闘時間は減る。人間はそれほど長時間戦い続けることなどできないからだ。
夜明け前からの激戦は、太陽が中天を過ぎて数時間後には鎮静化した。おそらく午後二時か三時あたりだと思う。
自然な形で衝突の数が減り、各陣に戻っていく感じだ。
渋沢が帰還して数十分ほどして井伊殿が、更に三十分ほどして承菊と関口殿が、早馬で本陣に駆けつけてきた。
お互いに示し合わせたわけではないし、勝千代が呼び寄せたわけでもない。
増していく不安を、皆がどこかで感じ取っていたのかもしれない。
「おお、関口殿」
井伊殿は大きな声で勝千代の無事を喜んでから、その声の大きさのままで、陣幕の内側に入ってきた関口殿を名指しして健闘を称えた。
そこだけ聞けば単なる挨拶のようだが、声の張り具合からそれ以外の含みを感じる。
だが今は、井伊殿の「お家芸」に付き合っている気力はなかった。
勝千代は軽く手を上げて井伊殿を制し、駆けつけてきた者たちをねぎらう。
井伊殿が勝千代の前の右前の床几に座り、遅れてきた関口殿が左側に座る。承菊はそれよりも下座だ。渋沢はいつの間にか勝千代の背後に立っていた。座ればいいのに。
「和睦の使者を待っているのではないでしょうか」
何かがおかしい、手ごたえが浅いと感じていたのは勝千代だけではなかったようで、それについての予想でもっともしっくりくるのは、承菊の見解だった。
井伊殿が同意し、いよいよそうなのではないかという空気になるが、当然ながら勝千代の周囲の者は納得がいかない。もちろん和睦の条件は勝千代の首だと言ったどこぞの誰かがいるからだ。
渋沢が苛立たし気にガチャガチャと鎧を鳴らし足踏みをする。漂う男前オーラは健在だが、戦場で血を浴びた興奮冷めやらぬのか気配が尖っている。
「それまでに決着をつける事はできませんか」
勝千代の問いに、その場にいた皆が厳しい顔をした。
そうか、難しいか。
勝千代は卓上に置かれた地図に目を向け、三方を囲んで優位に立っても押しつぶせない、北条軍の守りの固さに顔を顰めた。
これまで以上に強く押して、押し切ることができればいいのだが、より強い反発がくればこちらの被害も増す。
あえて手を控える感じで、味方の被害を最小限に、やんわりと押し続けるのがおそらくは最もいい。
河東の兵糧をあてにしていたであろう北条軍の、備蓄兵糧が尽きるのも時間の問題だった。今後の補給はもはや箱根方面からのみで、あの難所を小荷駄隊が越えてくるのは簡単ではないだろう。
極端な話、攻撃もせず囲うだけでも相当に困るはずだった。
だが、今求められているのは短期決戦だ。
のんびり相手が弱るのを待っている時間はない。
「……和睦か」
「いえ」
勝千代のつぶやきに、承菊が即座に声を上げる。
「勝千代様の御命と引き換えの和睦など、到底受け入れる事は出来ませぬ」
傷ひとつない整った面でやけにきっぱりそう言うが、こいつが真に思うところが別にあるのはわかっている。
下手に和睦が整ってしまい、あるいは伊豆から兵を引くことになってしまうのは困るのだろう。
「使者の口など塞いでしまえばよろしいのでは」
おどろおどろしい口調でそう言うのは渋沢。勝千代の側付きや護衛たちもおおむね同意するように頷いている。
「負けている方に有利な和睦などありえませぬ、と言いたいところですが、敗戦が濃厚だからこそ、それを回避するための和睦なのでしょうな」
井伊殿は厳しい表情のままそう言って、「そういえばどこからの使者でしょう」と顎をさする。
それは伊勢殿だろう。勝千代はそう答えようとして、黙った。
伊勢殿陣営の誰かが和睦の使者として、仲裁にくるだろうとは予想できた。
だが誰が来る? まさか庶子兄、亀千代だなどと言わないよな? だったら絶対に会いたくない、会わないぞと思いながら、勝千代もまた顔を顰めた。
「……時間を稼ぎましょうか」
「何か策はおありですか」
「血の臭いに当てられて、気分が優れず」
井伊殿の問いに真面目な顔をして答えると、その太い眉がひょいと上に上がった。
「今日明日に使者が来たとしても、具合が悪いから会えぬと丸一日二日は寝込む予定です」
「なるほど」
井伊殿は顎を擦りながら何度か頷いた。
「ですが数日引き延ばしたところで、有利な条件が出てくるとは思えませぬぞ。そうですな、引き延ばしがてら、いっそ脅してやると言うのはいかがでしょう」
「……脅す?」
まともなことを言いそうな口調と表情の井伊殿に、用心しながら問い返す。
「もちろん勝千代殿の御命をとふざけたことを命じてきた証拠の書き付けをつきつけるのです」
「いや、そのような書面など」
庵原殿は口頭で聞いただけのようだから、そのような証拠になるようなものは所持していなかった。いやもしあったとしても、早々に処分したはずだ。
「いいですね」
否定しようとした勝千代よりも早くそう言ったのは承菊だ。
「それらしいものを用意して、使者に全責任を負えと言うてみるのもよいでしょう」
ノリノリでそんなことを言い、二人は実にテンポよく話をまとめ始める。
「まて、言いがかりだと難癖をつけられ、余計に不利な条件をだされるやも……」
「どのみち、受け入れがたい条件になることは予想できます」
受け入れがたい、というのは承菊にとってだろう。
勝千代は、ガバガバ計画を推し進めようとする策謀家どもをどう扱えばよいかわからず、空気に徹している関口殿に目を向けた。
関口家は今川とは縁が深く、一応は血縁関係にある。しかしこのところの駿府での公家様の家風に馴染めぬとかで、今川館とは距離を置いているのだと聞いている。
一門衆というよりは、前線での戦働きが長い、どこか父と似た経歴の持ち主だった。
そんな関口殿に違う意見はないかと尋ねようとしたのだが、その目がじっとこちらを観察していたことに気づいた。
駿河衆の今回の伊豆侵攻に、諾々と無謀な策に乗った男だ。
これまでは流されやすいタイプかと重要視していなかったのだが……
視線が合って、どうやらそうでもなさそうだと感じたが、勝千代がそう思うと同時に目を逸らされた。
とりあえずガバガバ計画は保留にしてもらった。
どこからの仲裁が入るか確かめてからでも遅くはない。
このまま戦いを続けても北条が引くとは思えないが、囲んで削るという方法は間違ってはいないのだ。
即席の軍議で決まったのは、それぞれ被害の拡大を防ぎながら戦うことと、後方を突かれないように気を配る、という当たり障りのないものになった。
だが得るものがなかったわけではない。
「……よろしいでしょうか」
また庵原殿に面会していくという承菊を待つ間に、関口殿が内密にと話しかけてきたのだ。




