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春雷記  作者:
駿河編

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51-5 駿東 決戦1

 それは夜明けとともに始まった。

 世界が割れる。大地が崩壊する。いやもちろんそれは比喩だが、勝千代の全身を包むのはそれにも似た轟音と振動だった。

 長久保城の攻城戦のときにも感じた地響きは、勝千代自身は城の中にいたからまだ軽微なものだったのだ。

 東門から外に出て、黄瀬川の手前に張った本陣から見るその情景は、まさに地獄の釜の蓋が開いたかのような有様だった。

 怒号。悲鳴。そこかしこで上がる血しぶき。

 敵味方入り混じる混戦地はひどい有様で、壮絶や陰惨や残虐という言葉では表現しきれないほどの激戦だ。

 城の比較的安全な所から見下ろしているわけではなく、川越しとはいえ手が届きそうな距離での惨劇。

 それは、朝焼けの空を背景に、ペンキをぶちまけたようにすべて真っ赤に染まって見えた。


 強い風が吹いている。

 バタバタと陣幕が揺れ、旗指物がしなり傾くほどの強風だ。

 顔にあたる風は血なまぐさく、朝焼けの茜色に相まって、血しぶきそのものを含んでいるような気さえした。

「……風向きが悪い」

 勝千代がつぶやくと、勝千代とは違って完全武装の側付きたちも同意する。

 風上から漂ってくる血の臭いは濃厚で、肺にまで鉄錆がこびりつくかのような息苦しさがあった。

 勝千代は、ぐっと扇子を握りしめて戦う者たちを見据えた。

 夕べは勝てると思った。

 井伊殿の軍は北条の横っ腹を突くような形だし、駿河衆は威勢よく南側から攻めている。

 長久保城側からも、特攻男渋沢が今日も元気に出陣している。

 形勢は不利ではない。夕べは・・・勝てると思った、その考えを訂正もしない。

 だが思っていたよりも戦況は動かなかった。

 北条軍は広がるのをやめ、兵の層を厚くし、押しても押しきれない重厚な構えを見せている。

 それでも兵力差があるので、時間を掛ければ潰せるだろう。だがそれは同時に、味方の兵にも負担が大きいということを意味する。

 嫌な感じがした。

 それは直感ではなく、ほぼ確信だった。

 一見今の状況は、退き口間際で北条が踏ん張っているように見える。

 だが本当にそれだけか?

 脳裏に過ったのは、胡散臭い童顔男の顔だった。長綱殿で思い出すのは、実兄左馬之助殿ですら腰が引けていたあの悪辣さだ。

 どうして勝千代の知己の僧侶は、そろいもそろって食わせ物なのだろう。


 勝千代は目の前のことだけを見るのをやめ、北条軍の立場で考えてみた。

 もし勝千代が北条軍を動かしているのなら、夕べのうちに撤退を始めていただろう。

 井伊軍を視認してから、三方を囲まれるという体勢にもちこまれるまでには、少なくとも数時間。そのあとすぐに日が暮れたので実質半日以上の猶予があった。

 彼らはその間に広がっていた兵を東部にまとめた。そして撤退するのではなく、徹底抗戦の構えを見せている。

 状況は北条軍不利だ。北条はその事を理解しているはずだ。では何故、あえて消耗戦を選ぶのだ?

 きっとどこかに、勝千代には見えていない要素がある。それが何か想像もつかないのが恐ろしい。

 這い上がってきた悪寒に身震いする。嫌な予感などという生易しいものではなく、さながら地獄の淵で背中に手を押し当てられているようだった。

 不利とわかって踏ん張っている理由があるとするなら、情勢をひっくり返す「何か」を待っているのだろうか。

 例えばなんだ? 今川軍の内応か? 別のところからの増援か?

 可能性があるのは甲斐の武田軍と……そういえば、里見軍はどうしている? 水軍とはいえ軍は軍、兵数に数えるべきではないのか?


 箱根の山から太陽が昇る。雲の縁の片側だけが毒々しいほどのオレンジ色だ。

 上空はここよりもなお風が強いのだろう。流れていく雲の動きが早い。

 不意に、膝から力が抜けていくような「何か」を感じた。

 その妙な感覚はすぐになくなったが、良くない事が起こったのだと本能が察した。

 それは予感だったのだろう。ぎゅうと胸元が引き絞られるような痛みと、取り返しがつかない大きな失敗をしたのだという確信と。

 勝千代は手のひらで胸を押さえた。

「勝千代様?」

 土井が訝し気に問い、それを聞いた側付きたちが、戦場から勝千代の方へと視線を戻す。

 おそらく真っ青な顔をしていたのだろう。皆が口々に心配して声をかけてくる。

「……いや、大事ない」

 勝千代はそう言って、胸から手を離した。

 

 急がなければ。

 いまだ混戦が続く戦場を見ながら、強く思った。

 息が詰まるようなあの感覚を、気のせいだと切り捨てることが出来ない。

 戦が優位に進んでいるうちに、「何か」が追いついて来る前に、決着まで待って持って行かなければ……負ける? 負けるのか?

 もう一度太陽の位置を確認する。

 いつの間にか朝焼けがなくなり、雲が多めの春の青空が広がっている。

 いや、負けると決まっているわけではない。この優位はそうそう覆せるものでもないからだ。

 兵の数は力だ。たとえば北条軍に父のような猛将がそろっているのだとしても、三千もの兵差を埋めるのは簡単ではないだろう。

 今この状況から負ける要素があるとするなら、それはきっと……予測もできない外的なものだ。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] この時期の武田って 関東管領側な記憶あるので北条とは組んでないどころか めちゃくちゃ恨まれてる筈(うろ覚え)
[気になる点] 明日の更新がとても気になります(楽しみです) [一言] 外的な要因で、戦況が変わりそうなケース。 ・甲斐武田が抑えを破り南下。西か北から戦場に現れる。 ・伊豆か房総の水軍が田子の浦あた…
[良い点] 復興中の冨士辺り略奪中?
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