51-3 駿東 長久保城 地下牢
恐ろしい男だ。
勝千代は深い階段を下りていく承菊の後ろ姿を見ながら、ぶるりと身震いした。
彼の憎悪は、言っては何だが個人の、大きく見積もっても庵原家だけの問題だ。
だが承菊はそれをずっと胸に秘め続け、ここぞというところで駿河衆、いや今川家全体をも巻き込んだ。
正直なところ勘弁してほしいし、理解できるとも言えない。
庵原殿もその嫡男も、従順で扱いやすく人当たりの良い彼の事を疑ってもいないだろう。
悲運の母親と、嫡流なのに庶子と扱われた子。気の毒ではあるが、一夫多妻の武家社会では往々にして「よくあること」だ。
どこの家にも、多かれ少なかれ憎悪の種があって、皆が虎視眈々とひっくり返すことを狙っているのなら……親兄弟が血で血を争う世だと言われるのも頷ける。
いや頷いて納得している場合ではない。
他ならぬ勝千代もその当事者で、ずっと悩まされてきた問題だからだ。
本当によくある事なのだ。
もともと家長制が強い日本では、親の持つものは跡継ぎたる嫡男がすべて受け継ぐ。総取りだ。
嫡男でないなら、苦労を承知で家を出るか、婿養子に行くか、あるいは生涯兄弟に養ってもらいその風下で生きて行くしかない。
そのことに我慢が出来ない。己の方がうまくやると思う者は多いのだろう。
実に世知辛い、いや恐ろしい世の中だ。
本来血を分けた兄弟として、最も信頼できる者のはずなのに。
承菊がしたのが、正確には「なにもしなかった」ことだというのがまた恐い。
本来忠告なり制止なりするべきところを無言で流し、庵原家を窮地に叩き落した。
このままだと当主庵原殿は自裁すら許されないかもしれない。庵原家そのものも存続は危うい。
勝千代はやがてたどり着いた地下牢の、意外と広々とした空間に視線を巡らせた。
地下だが妙に明るくて、高い天井近くにある明り取りの窓から陽の光が差し込んでいるのが分かった。雨が吹き込むだろうし、地下牢でこの造りは珍しいのではないか。いや蘊蓄を語れるほど地下牢を見てきたわけではないが。
「……承菊か?」
「はい、父上」
厳重な見張り付き監禁状態の庵原殿が、震える声で承菊の名を呼んだ。
立ち上がろうとしたのを、肩を押さえて制されて、がっくりとその場で両膝をつく。
「おお、おお承菊……無事だったか」
「父上……なにゆえにこのような事に」
承菊の頬に涙が伝う。その声は震え、哀れな息子そのものだったが、隠された悪魔の尻尾が上機嫌に左右に揺れているのが見える気がした。
誰も何も言わないが、ぞわぞわと鳥肌が立っているのは勝千代だけではないはずだ。
この親子を会わせるか否かはおおいに迷った。
承菊曰く、駿河衆を伊豆に押込めておくために尽力するからということで、その希望を受け容れることにしたのだ。
「必ず伊豆は奪い取ります。我らが引かぬうちは父上の御命は奪わぬと、勝千代様がお約束してくださいました」
まったくもってそんな約束はしていないからな。
「……っ、すまぬ、すまぬ承菊。不甲斐ない父を許してくれ」
「心安らかに良い知らせをお待ちください」
良い知らせってなんだよ。庵原家嫡男の戦死か? 庵原家が先祖代々の土地を追われるということか?
勝千代はげんなりしながら、いい年をした親子の御涙頂戴劇から目を背けた。
庵原殿を恨んでいないなんて大嘘だ。
これはあれだ。父親の細い希望と深い絶望を眺めてメシウマというやつだろう。
俗世を捨てきれない孝行息子の顔をして、腹の中は真っ黒そのもの。
勝千代は思いっきり突っ込みを入れたくなる気持ちを堪え、太い格子越しに向き合う親子から意識を逸らした。
「ありがとうございます。父のことをよろしくお願いします」
別れ際、承菊はそう念押しして、丁寧に頭を下げた。
そのつるりとした頭を見ながら、「もう来るな」と言いたくなるのをかろうじて堪える。
「この先の伊豆の事はお任せください」
「まだ北条は引いていない。伊豆の件は先の話だ」
「もちろんでございます。ですが、箱根方面にしか退き口がない状況、これまでのように駿河からの補給もない中、五千余もの兵を河東に置き続けるのは難しいでしょう」
勝千代は胡乱な目で承菊を見据えて、不本意ながらその意見がまっとうだと頷いた。
河東から、いざというときの内応の約定を取り交わしていただけではなく、備蓄米の融通も受けていた。桃源院様からの仕送りも含めると、北条家は兵糧に関して相当今川に依存しているのではないか。
だとすれば、そのすべてを断たれた現状、長く戦線を維持することは難しくなるはずだ。
「反面、引くに引けぬ状況でもあります。背水の陣と腹をくくり、激戦になるやもしれませぬ」
勝千代は長く息を吐き、まともなアドバイスをしようとすればできる僧形を見上げた。
もしこの男が忌憚なく意見を言い、駿河衆を止めていれば、こんなに大きな戦になっていなかっただろう。
「承菊」
「はい」
勝千代は承菊の名を呼んでからしばらく黙った。
じっと見上げた男の顔は、何の罪咎も負っていないかのように美しく整っている。
質素な墨色の法衣を纏い、孝行息子を装いつつ、一枚皮を剥げばその下にあるのは毒々しい憎悪。
壮大な復讐劇だ。それは、これほど多くの人間を巻き込み、大勢の死という業を背負ってまで成し遂げなくてはならないものだったのか?
問いかけようとしてやめにした。
もし是と答えられたら、いずれこの男を殺すことを考えなければならない。
今はまだ、その時ではない。
「送らせる故、気を付けて戻れ」
「いえ、そこまで御手を煩わせるわけには参りません」
「見届けるまで死ねぬのだろう」
くっきりとした二重の双眸が、予想外の言葉を聞いたとばかりにこちらを凝視した。
だからお前、目力強すぎるんだって!
勝千代は辟易しながら顔を背けたので、承菊が何か返事をしたようだが、聞き取れなかった。




