50-10 駿東 長久保城10
遠くとはいえない距離で、ものすごい人数がうごめいている。
絶えず低い地鳴りのような低周波音が響いていて、まるで踏みしめた大地そのものが揺れているかのようだった。
勝千代は、目を閉じる事を自身に許さず、瞬きすら最小限に、大勢の生死が行きかう戦場をじっと見据えた。
人間がまるで蟻のようだ。
どこか現実感が薄く、悪夢のようで。
だが、食いしばった奥歯の鉄錆の味と、握りしめたこぶしの痛みが、これが現実なのだと告げている。
「三番掘りを突破されました! 東門まで下がりますっ」
伝令役の、まだ十代半ばの少年が駆け寄ってきて、少し離れた位置で片膝をついた。
視線が合って、慌てて下げられた顔に頷き返す。
「予定通りに」
「はいっ」
少年は元気よくそう叫んでから、再び元来た道を駆け戻っていった。
ガチャガチャと鳴る鎧が、彼には少し大きいようだ。
せめて鎧兜が身に合う年になるまで、生き延びてほしい、死んでほしくない。
勝千代はその背中をしばらく見送ってから、再び広い範囲に目線を向けた。
特に注意深く見ているのは、駿河衆の動向だ。
今のところは、北条の背後を突くべく兵を進めていて、北条軍のほうもそれに対応するべく陣形を動かしている。
長久保城から見下ろす風景は基本的には平野だが、小さな川や丘、細かい起伏などが無数にあり、樹木や背の高い茂みなどの遮蔽物がちらちらと軍勢を見えなくする。上空から俯瞰してみるほどはっきりと、動きを把握することができないのがもどかしい。
果たして本当に味方か。北条軍と一緒になってこちらに攻め込んでくるのではないか。
勝千代の中にある駿河衆の評価は、下り坂を転がり続けている。
それをかろうじて引き留めているのが、今この場に間に合ったことであり、今後の動きによっては全力で消す敵になるだろう。
ああ、接触するな。
遠くの砂ぼこりを凝視しながら、キーンと耳鳴りがするのに顔を顰めた。
北条軍はかろうじて背面を突かれるのを防いだ。とはいえきちんとした陣形を取れているとは言い難く、組織だった駿河衆の攻撃を完全に受け止め切れたとは言えない。
衛星カメラかドローンが欲しい。いやせめて望遠鏡が欲しい。
長久保城は標高の高い山に築かれているわけではないので、せいぜい見える範囲は五キロ程度しかない。遠い所でごちゃごちゃされてもよくわからないのだ。
だが、接触後激しく戦っているのは見て取れた。
あれが演技である可能性はもちろんあるが、少なからず手前の北条兵たちにも動揺が見られたところといい、今川軍にとってはいい流れだ。
「来ます」
土井の緊迫した声に、視力の限界にチャレンジしていた勝千代は視線を足元に向けた。
切岸から見える東門に敵が迫っている。今川の増援が城に到達する前に、なんとしてでも攻め落としたいところなのだろう。
力攻めによる攻城は効率的とは言えないが、猪突猛進型の左馬之助殿がいる北条軍にはあながち向いていないとも言えない。
矢で射られることを警戒して、地面に置くタイプの盾をいくつか設置しているが、適度に隙間が空いているので、東門に押し寄せてくる北条軍の勢いが凄まじいのはよく見えた。
東門の手前はコの字に曲がった造りになっていて、それはつまり、そこで待ち構えることができるということだ。
今川兵の最後のひとりが大急ぎで西門から逃げ込み、重そうな扉が閉ざされる。
東門は搦手門だが、大手門並みの頑強な造りをしていて、押し寄せてきた敵を一気に上から射掛ける仕組みが出来ている。
「あれは?」
勝千代が問いかけたのは、北条軍の一部が異様な形状の物を運び込もうとしていたからだ。
数本の太くて大きな樹木の幹を束ねたような形をしていて、それを数十人がかりで押している。
みたところあれで門を破ろうというのだろうが、そもそも川を渡るにも苦労していて、時間的には兵が東門に到達するまでにはとうてい間に合いそうにない。
「破城槌です」
第一陣の攻撃をかわせたとしても、あれが西門を破ってしまえば、続く兵に城内への侵入を許してしまうだろう。
藤次郎の険しい表情をちらりと見て、勝千代は首を傾けた。
見たところ、丸太を何かで縛り付けて、それを台車に乗せているだけのようだ。
完全な木製。木製だということは、燃やせばいいのでは。
「岸に上がったところで火矢を」
たっぷり油を染み込ませたヤツをな。
感覚がどこか壊れてしまったのかもしれない。
土井が射た火矢が続けざまに破城槌に突き刺さり、筵か何かに引火した。それと同時に、台車を押していた雑兵たちにも火が移る。川を渡りきる寸前だった破城槌が、木を束ねている所を壊され、大勢を巻き込んで横転した。
バタバタと人が倒れ、炎に巻かれた凄まじい叫び声が聞こえてきたが、勝千代は一瞥しただけで「よくやった」と土井をねぎらった。
悪夢のような情景だ。
だが、麻痺した心の奥底で、その凄惨さを当たり前のように受け入れていた。
ここは戦国だ。
戦わなければ、殺されるのだ。
戦況は拮抗していた。
長久保城は守勢。北条は城を攻め落としたいが、同時に駿河衆の相手もしないといけない。
兵も疲れてくるので、それほど長い時間を戦い続けることはできないはずだが、北条軍の攻勢は激しさを増すばかりで、東門の前にはすさまじい量の死体が積みあがっている。
矢をつがえた今川軍の射手たちが、また次の波が押し寄せてくるのを待ち構えている。
北条は矢の枯渇を狙っているのだろうが、残念。幸いにも物資は潤沢なのだ。
状況が明確に変わったのは、太陽が中天に差し掛かる頃。
まず東側に布陣している北条兵に動きがあった。
陣形を変えるというか、若干南へ下がるというか。
その頃には東門への攻撃もいったん収まっていて、射手たちをねぎらうために握り飯の差し入れを命じたところだった。
「なんだ?」
そう不安そうに言っているのは勝千代ではない。
少し早すぎる気もするが、ある程度の予想はしていたので、不安ではなく期待を込めて東方面の北条軍に目をこらした。
「……井伊殿?」
疑わし気な口調でそう呟いたのは、目のいい土井だ。
「井伊殿だ! あれは井伊軍ですっ‼」
土井は目がいいが、同時に声も大きい。そのよく響く大音声は、味方だけではなく、おそらく近くにいる敵の耳にも届いただろう。
勝千代は大きく息を吐き出した。
ようやくひと息つける。
うまくやれば、勝てるだろう。




