50-9 駿東 長久保城9
勝千代が、新しく築かれた丸太の砦に手を出さなかったのには理由がある。
そこに砦ができるということは兵を配備するということ。
北条が伊豆ではなく、駿東にそれなりの労力をつぎ込むつもりだと判断したのだ。
北条方に立って考えてみるとわかる。
長く相模をあけておける状況ではないので、短期決戦を望むだろう。
伊豆の三千と、長久保の千五百。どちらが短時間で取りやすいかなどわかりきったこと。そもそも最初は配備された兵は五百だったし。
長久保及びあの一帯を支配できれば、伊豆への補給を遮断できる。
つまりは駿河衆を伊豆に閉じ込め、料理は後日ゆっくりすればいいと考えていたのだと思う。
そうなると見越して、韮山城には何度も知らせを送っていた。
返信どころか、届いたという確信もなかったので、はたしてこの状況をきちんと読み取ってくれるか不安だった。
抜け目のない庵原家の隠し玉が、どの時点で気づいたのかはわからない。
だが、以心伝心ではないが、勝千代の意図するところを察知してくれたのは間違いない。
以下、段蔵調べによる。
今現在韮山を囲んでいる兵はいない。
予想通り、北条はあの一帯から引いて、全兵力を駿東に向けていた。
駿河衆は、韮山城を奪い返しにきた北条軍を鉄壁の構えで退けていたのだが、それは北条方の計略のうちだった。
劣勢を装い、時折囲いに穴をあけるそぶりを見せて、駿河衆が完全に油断をするまで韮山城を繰り返し攻めたのだ。
肝心なのは、駿河衆に勝ったと思わせる事だ。
城を攻める勢いが次第に弱まり、やがて北条軍は敗走した。実際は駿東へ兵を向けたのだが、少なくとも駿河衆は北条軍を追い払ったと、そう考えた。
敗走した兵が、相模に帰還するルートは限られている。少なくとも南には向かわない。
北条の残兵が北へ向かうことを疑問視せず、意気揚々と伊豆攻略を進めるべく南下していった。
ぶら下がったニンジンをたらふく食うぐらいの気持ちでいたのではないか。
つまり北条は、三千の兵に伊豆を食わせようとした。
その隙に、己らは駿東を食おうとしたのだ。
どの段階でこれが策略だと気づいたのか。承菊は渋る駿河衆を説得し、兵を北上させた。
過半数が伊豆を食いたいと言い張る中、皆を引き連れて戻ってくるのは相当に苦労したようだ。
予定外の帰還をした駿河衆は、長久保城が大軍に囲まれている状況に、さぞかし驚いたに違いない。
五千以上もの北条軍が、駿東にいることすら気づいていなかったのだから。
それほど完璧に、伊豆半島は情報隔離されていた。
「勝千代殿」
小具足姿の庵原殿が、震える声を上げる。
「わしは騙されたのか」
「忍びが接触してきたのか? 何を言われたかわからないが……」
「忍びではない」
庵原殿は心外そうに首を横に振った。
この男には夜番で西側の門を守らせていた。少なくとも、見張らせている者たちからは、おかしな動きがあったという報告は受けていない。
こちらに気づかれないように、よほどうまく接触したのだろう。そんなことが出来る者が忍びでないはずはなく、庵原殿が気づかなくとも、忍び以外を装った忍びなのだろう。
そもそも毒針。あんなものを使うのは忍びしかない。
庵原殿は地面に両手を付いて丸くなった。
嫌々をするように首を振り、それでもなお地平線の砂ほこりから目を逸らさない。
「この戦を穏便に収める為に、勝千代殿の御命が条件だった」
うわごとのようにつぶやくその言葉に、さっと周囲の気配が殺気立ったが、勝千代は片手を上げて制した。
「韮山は落城寸前、すぐに和睦の話をつけなければ、駿河衆は全滅すると」
そもそも、先に伊豆に侵攻したのはこいつらだ。その折り合いが、勝千代の命ひとつでつくはずもないだろう。
ふと、脳裏を嫌な予感が掠めた。
勝千代を鬼子と呼ぶのは、今川館の奥深くで監視されている方々だ。
「和睦か。どなたが仲立ちを?」
「伊勢の御本家が……」
はっとしたように、庵原殿が口をつぐんだ。
だが、この場にいる全員がその言葉を聞いてしまった。
なるほど、と冷静に思ったのは勝千代だけだ。その他の者たち、数分前に合流したばかりの段蔵ですら、不快を隠さない。
北条家は、先代までは伊勢姓だった。年齢的にも、黒蛇伊勢殿と当代北条殿とは直接面識があるだろうし、少なくとも伊勢殿の中では本家分家という序列が成り立っているのかもしれない。
今川家も、そもそも桃源院様が北条の先代の姉君だ。つまりは同じ伊勢一族なのだ。
北条家でかくまっていた御曹司を担ぐ伊勢殿にとって、今の時期に一族内での揉め事は困るということだろう。
「これから一戦交えるというときに、背中から刺されるわけにはいかない。西門は別の者に任せよう」
興国寺城で庵原殿を諫めようとした男がいたな。庵原家の兵をよそに任せても指揮系統が混乱する。あの男に任せるか。
そう思いを巡らせていた勝千代の足元に、いつのまにか庵原殿が近づこうとしていた。
「ほ、北条家と戦うおつもりか」
うずくまったまま、四つん這いになって。さながら虫のように這い進む様に、これまで我慢してきた苛立ちが噴き出してきた。
「むしろ今の状況で、戦わないという選択はない」
今川軍は北条の前後を陣取った構えだ。兵数もそれほど変わらない。
あと一日二日で井伊殿の兵も駆けつけてくるだろうし、そうなれば総兵力では逆転する。
「そもそも、それを望んで仕掛けたのは誰だ」
縋るような目で見上げてくるな、地虫。……いや、この言い方だと虫に失礼だな。
勝千代は冷ややかに地虫にも劣る男を見下ろした。
踏んだら駄目かな? 踏みつぶしてもいいだろう?
勝千代が庵原殿を蹴飛ばす、あるいは踏みつぶす衝動を堪えたのは、安全を考慮してふたりの間に距離があったからだ。
庵原殿が、何かに怯えるような表情で震え始めた。
「お、御屋形様……いや、勝千代殿」
がたがた奥歯がかみ合わず、声も聞き取りにくい。
「どうか、どうか」
「庵原殿」
勝千代は再び聞こえてきた法螺貝の音に耳を澄ませてから、土井と南に腕を掴まれ地面に押し付けられた庵原殿を見下ろした。
「……逢坂が死んだら、その首をねじ切ってやる」
勝千代は、かろうじて虫を踏みつぶすのを我慢した。
少なくとも、今は。




