50-8 駿東 長久保城8
鎧兜の逢坂ごと、硬い地面に転がった。若干傾斜がある場所だったので、斜面を滑った感じだ。
危うくそのまま切岸から落ちるところだった。
三人ほどが逢坂の身体をつかんでくれたので、ひやりとする程度で済んだのは幸いだった。
「伏せろ!」
「どこからだ!」
護衛たちが口々に警戒の声をあげる中、勝千代は転がったまま、地面に深く突き刺さっている一本の矢を見つめていた。
「いたぞ!」
飛んで来た矢は一本だけだった。
遠射で狙われたのか。しかし何故一本だけ?
勝千代は強く抱き込まれたまま、側付きたちが見ている方向に首だけ巡らせた。
あそこか。
遠目に、二、三センチほどの大きさの鎧武者が見える。
川岸の少し小高い部分に立ち、弓を片手にこちらをじっと見ていた。
左馬之助殿レベルの武将らしく、側付きらしきものが数名、背後にははためく青い指物旗。更には白い北条家の家紋。
急激に遠くのものが詳細に見えているような錯覚に見舞われていた。
その距離約二百メートル? あるいはもっとあるかもしれない。容貌の識別などできるはずもない距離なのに、直接目があった気がした。
逢坂老が地面に転がったまま、匍匐前進をするように本丸曲輪に戻ろうとした。
その他の者たちは、飛矢に警戒して遠くに視線を向けている。
勝千代自身もその射手を見つめていて、周囲のことはまるで目に入らなかった。
十秒ほどの間を開けて、その射手が再び矢をつがえるのをどこか遠い出来事のようにただ見ていた。
……まさか。
気づきは、ほぼ直感のようなものだった。はっと息を飲み、射手からその背後へと、遠くへ目をこらす。
避難しようとしている逢坂の肩を強くつかんだ。
同時に「庵原殿!」と、勝千代を抱き込んだまま、逢坂老が大声でそう怒鳴った。
何が起こっているのか理解できなかった。
飛んでくる矢を避けるべく、狙われやすいこの場所から退避するべきだというのはわかる。
だが何故逢坂老が庵原殿の名前を叫び、身を挺するように勝千代を庇うのだ。
事態に気づいた護衛たちが、ぶつかってきた庵原殿を逢坂から引き離した。
もし庵原殿が、その手に刃物を持っていたなら、勝千代の護衛たちの対応も違っていたのだろう。そもそも近寄らせることもなく、切り捨てていたはずだ。
だがはた目には、庵原殿は無手で駆け寄ってきたように見えた。
それが皆の判断を狂わせた。
勝千代は逢坂の肩越しに庵原殿の顔を見上げた。
その血走った目の奥にある表情が気になって、「待て」と谷らを制止しようとしたが、寸前、その手に握られたきらりと光る不穏なものに目が吸い寄せられた。
針だ。
目はそれを認識したが、だからどうすればいいかはわからなかった。
毒針か? 逢坂はそれで刺されたのか?
庵原殿を拘束しようとすれば、谷らも刺されるのではないか?
逡巡は、よくない時間的な隙を産んだ。護衛のひとりが手を押さえて刀を取り落とす。
どうしよう、どうすればいい。
勝千代は逢坂に体重を掛けられた状態だったので、身動きひとつできず、声も張れない。
谷らも針の存在に気づいたのがわかった。
庵原の再度の暴挙に備え、肉壁になろうと立ちふさがったのは側付きたちだ。
勝千代はそこまできてようやく、庵原殿が暗殺しようと襲い掛かってきたのだと理解した。
これだけ見晴らしのいい場所で? 周囲には、何人もの護衛(目撃者)がいるのに?
その後のことは一瞬だった。
庵原殿の体が勢いよく吹き飛び、本丸曲輪の壁に激突する。
黒っぽい装束の忍び衆が数人、曲輪の壁の上から飛び降りてきたのだ。
影供が来たのかと見開いた目で、複数のその忍び衆を認識して「あ」と間抜けな声をこぼした。
それは、勝千代が良く知る男たちだった。
この一か月、側にいてくれれば心強いのにと、何度も何度も思った。
「段蔵、弥太郎」
視線が合い、涙がこぼれそうになった。
勝千代はぐったりと動かない逢坂老に潰されたまま、重い鎧ごとその身体に手をまわした。
地面に落ちた毒針を拾い上げた弥太郎が、注意深くその先端の臭いを嗅ぎ、塗られているものを検分している。
すぐにも安全な本丸曲輪に戻らなければならないのはわかっている。
だがその前に、全軍の士気の事を考え、勝千代はその身の無事をアピールしなければならなかった。
ただ立って、一周ぐるりと全軍を見回しただけだが、怪我をしてはいないと遠目にもわかっただろう。
段蔵が足元に片膝をつき、深く頭を下げる。
「御無事で何よりにございます」
運ばれていく毒を受けた負傷者はふたり。弥太郎が足早に付き添い、こまごまと配下の者に指示を出している。
勝千代は曲輪の壁に背中を押しつけるようにして、大きく深呼吸した。
無事ではない。まったくもって無事ではない。
大勢が死んでいく。戦だからいいというものではない。逢坂も、若いあの護衛も死ぬのかもしれない。
ここにいるのが父ならば、状況は違っていただろうか。もっとうまく、ここまで来る前に事態を収めていたのではないか。
「勝千代殿」
ぎゅっと目を閉じた勝千代の顔を、気づかわしげに覗き込んでくるのは五郎兵衛殿だ。
大丈夫なのか、と声には出さない問いかけに、息を整えながら薄目を開けて小さく頷く。
「ぐっ、離せ! わしは鬼子を始末せねばっ」
大声でわめく庵原殿に、五郎兵衛殿がすっと温度の低い視線を向けた。
いや五郎兵衛殿だけではない、大勢の遠江衆、それから幾人かの若手の駿河衆も。
勝千代は少し気持ちを落ち着かせ、もう一度大きく息を吸い込んだ。
「あの矢は合図か」
問いかけに、庵原殿はびくりと身をすくめた。
真っ青な顔で勝千代を見て、その若干震えた声に何か言い返そうとして口ごもる。
「敵に通じたのか」
「そっ、そんなわけが……」
「うまく踊らされたな」
勝千代は息を整え、壁から背中を外した。
そして段蔵に目配せをしてから、再び本丸曲輪の裏口の木戸を開け放つ。
「見えるか」
危険だし、皆が全力で止めてくるだろうから、外には出ない。
だが大人たちの視線が木戸の向こう側に向き、そこに何かを見つけたのが分かった。
地平線の際のあたり、北条軍の背後だ。大軍に目が行き、すぐにはそれとわからないだろう。
だが砂ぼこりが上がっている。何かがそこにあるのはわかる。
「……軍勢ですね」
段蔵の淡々とした言葉に、その場にいるほとんどが、北条の後詰だと思ったはずだ。
だが勝千代の意見は違った。
「駿河衆だろう」
「……なにっ」
食い気味に、真っ先にそう反応したのは庵原殿だった。
「北条にこれ以上の兵は用意できない」
勝千代は遠くに見える砂ぼこりに目をこらしつつ言った。
おそらく韮山城にいた兵たちだろう。
駿河衆は今川を裏切り、北条方についたのか。あるいは包囲の手が緩んだのに気づき討って出て、北条軍の背後を突くことにしたのか。
さあ、どちらだ。




