50-7 駿東 長久保城7
長久保城攻防四日目、早朝。
「若、起きてください若!」
数日の寝不足のせいで、一瞬目を閉じただけのつもりなのに沈むように深く寝入っていた。
取り返しのつかない大失敗をした気がして、ひゅっと息を飲みながら両眼を開ける。
周囲はまだ薄暗く、夜明けまでしばらくはありそうだった。
暗がりでこちらを覗き込んでいるのは、見慣れた皺顔。特に緊迫した表情ではなかったが、即座に「来たのか」と覚悟した。
勝千代は無言で身体を起こした。臥所から出で立ち上がると、藤次郎が素早く寄ってきて身支度をしてくれる。
とはいえ大人のように髭を剃ったり月代の手入れをしたりする必要はない。
袖を通したのは、濃い紺色の直垂。髪は総髪でひとつ結い。元服していないので烏帽子もないし、小具足装束も身にまとわない。
胸の飾り紐を整え終わったその後に、小具足姿の逢坂が細長い包みを差し出してきた。
「なんだ?」
「渋沢殿より預かり申しました、若の御母上様の懐刀です」
いやだから、渋沢。
どうしてそんなものを所有しているのかという突っ込みはさておき、いちいち死亡フラグのような真似をするなよ。
「……渋沢は」
「すでに出ております」
まだ深夜の時間帯から、一足早く最前線に出陣していったそうだ。
何故起こさない。せめて直接渡せよ。
そう言いたかったが、それこそ死亡フラグだと言葉を飲み込む。
なんでも渋沢は一時期母の護衛を務めたことがあるようで、御屋形様の側室として今川館に上がる際に餞別に拝領したのだそうだ。
まあ、百歩譲ってそういうこともあるだろう。甘酸っぱい何かがあったのかもなどと、詮索するつもりはない。
だが、それを戦場にまで持ってくるというのはどういう心情だ。
「いつか若にお返ししたいと申しておりました」
初陣のお守りにと、いつ渡そうかと躊躇っているうちに、機を逃してしまったのだとか。
くるんであった布を払うと、見るからに女物の、十年という歳月を感じさせない美しい品が姿を見せた。
中身はともかくとして、入れ物は薄桃色の絹織物に白い飾り紐だ。全体的に黒いイメージの渋沢が持ち歩いていたというには、ミスマッチに可愛らしい。
もちろん男児の持ち物でもないが、お守りに見た目を気にするのは間違っているのだろう。
勝千代が無言のまま懐刀を身につけると、逢坂老だけではなく、もとは父の側付きだった土井や南まで感慨深げな表情になった。
そういえばこいつらも母のことを知っているのか。
これまで漠然としたイメージに過ぎなかったその姿を想像し、いつか皆に話を聞かせてほしいと言おうとして……勝千代は、喉元まで込み上げてきた言葉を飲み込んだ。
それこそ死亡フラグじゃないか。
話はすべてが終わってから。真っ先に渋沢から聞き出すことにしよう。
母の懐刀と、やんごとなき例の扇子と。
大切なものふたつを差すと、ひどく腹部が重かった。
だが、目前に広がっている大軍を前にすると、それこそが勝千代をこの場につなぎとめてくれる錘のような気がした。
今すぐ逃げ出したい。その衝動を堪えて腹の底に力を入れる。
「ここで見届ける」
「いや、ですが」
「手間をかけるが……頼む」
北条軍の本隊は南西側にすでに布陣している。
だが同時に、東側にも広く軍勢が配されていて、長久保城を押しつぶそうという勢いだ。
これまで北条軍が総攻撃を仕掛けて来なかったのは、軍勢が揃うまで待っていたのだろう。その数はおそらく五千では収まらないようだ。
すでに物見やぐらに上らずとも、それらの威容は見て取れた。
もちろんすべてが俯瞰して見て取れる場所などない。本丸曲輪は城の南東の角にあって、今勝千代がいるのは見晴らしの良いその外郭部分だ。
外郭と言ってもこの時代は石ではなく土の壁で、山を利用して作られている。
おそらくここは斜面を人工的に削った部分だろう。土が鋭角にそそり立ち、攻め手を寄せ付けない造りになっている。
勝千代は本丸曲輪から張り出した、崖の際のところで大きく息を吸った。
土の臭いと、水の臭いと、若干薄れた鉄錆の臭い。
これから大きな戦が起こるというのに、チチチとさえずる小鳥の声が現実感から遠い。
ぶお~ぶお~
遠くで、いつか聞いたことのある音が聞こえた。
法螺貝だ。進軍の合図だろうか。
「若」
下がるようにと逢坂老が再び進言してきたが、それは無言で退けた。
北条軍が一斉に動き始めた。見事なほどに揃った足並みだった。
瞬きをするたびに距離が近くなる。圧倒されるほどの数の兵が、どんどんと迫ってくる。
北条軍五千強。今川軍は千五百。
まともに戦って勝てるはずもないので、川沿いで防ぎきれなくなれば城まで引くように命じてある。
三倍以上の兵に囲まれた城は、果たしてその守りの真価を発揮できるのだろうか。
怖い。逃げ出したい。
そう思っているのは勝千代だけではないはずだ。
それでも誰もが毅然とした態度を崩さず、じっと敵の接近を睨み据えている。
逃げてもいいぞと、そう言いたい。
かつて教師だった時には、大勢の生徒にそうアドバイスしてきた。死を選ぶぐらいなら恥も外聞も気にせず逃げ出せと。
ああ、今こそそのタイミングじゃないのか? 今なら敵に見とがめられず逃げ出すことは可能なはずだ。
それなのに、浮足立つ様子は一切なく、誰一人として持ち場を離れようとしない。
ちらりと空を見あげた。
数日前からずっと曇天だが、小雨程度しか振ってこない。
木造建築の城は火に弱い。もっと景気よく降ってくれれば、心配ごとのひとつが減るのだが。
雨乞いでもするべきか。そんな思いをもてあそび、苦笑する。
富士川が溢れたあの雨を厭い、早く止め、それ以上降るなと祈ってからひと月も経たない。
そんなにコロコロ願いが変わっては、さぞかし神もお困りだろう。
「……そのまま笑っておられませ。皆が若を見ております」
逢坂老の声は、わあわあと周囲を取り囲み始めた喧噪に紛れて聞き取りづらかった。
何だ? と聞き返そうと振り返り、何でもないという風に首を振られて。
勝千代は逢坂の方を向いていて、護衛たちも北条軍の接近に気を取られていた。
だからその異変に気づいたのは逢坂老だけだった。
表情の読み取りづらい皺顔に、見間違いようのない緊張が走る。
腕を引かれた。
つんのめって転ぶ寸前、逢坂老に抱き込まれた。
ガシャリと、鎧が地面にぶつかる不穏な音がした。




