50-4 駿東 長久保城4
本丸に火矢を射た伏兵は、その数おおよそ五百。北条軍は陽動の為に射手だけを潜ませたわけではなく、もともと二千五百の兵で攻め込んできていたのだ。
長久保城にいる今川の兵は千五百。五百の兵差ならなんとかなりそうな気もするが、千ともなれば無策では危うい。
勝千代は本陣とされた広間の床几に腰を下ろし、聞こえてくる喧噪に苛々と唇を噛んだ。
このままでは押し負けてしまうのではないか。
井伊殿が来るまでの数日間を引きこもって待つべきか、それとも……
勝千代は居ても立ってもいられない心境だったが、対照的に、戦に慣れた者たちは平然としていた。
きっとそれは周囲を混乱させないため、あるいは勝千代をパニックに陥らせないために装っているのだろうと思っていたが、時間が経つにつれ、案外そうでもないようだとわかってきた。
長久保城の縄張り図を広げ、本陣を守る居残り組がああでもないこうでもないと意見を交わしている。
今の状況は相当に良くないと思うのだが……違うのか?
「城攻めには少なくとも倍、いや三倍の兵は用意するものです」
そう教えてくれたのは逢坂老だ。
「ここは平山城ですから、高天神城のような山城よりは守りが甘い。それでも、この程度の兵をしのげぬようでは、到底城とは呼べませぬ」
なんと十倍の兵でも撃退できる堅城もあるのだとか。それはすごい。
「左馬之助殿もそのことはよくご存じでしょうから、こちらが大きな失策をしでかさない限りは、適度なところで引くでしょう」
引くだろうか? あの狂戦士が?
「戦を長引かせ兵を死なせるよりは、再戦に備え温存することを選ぶかと」
……本当に?
勝千代がとっさに思ったのは、補給線のことだ。
これだけの大軍を維持するために必要な兵糧は相当なものだ。それをいったん引いて兵を温存? 再戦までもつのか?
不意に長綱殿の癖のある流し目を思い出した。それから、先程見た眼下に広がる圧倒されるほどの松明の量。
ものすごく嫌な予感がした。
形だけの攻撃? あの左馬之助殿が?
取り返しのつかない何かを見逃しているのではないか。
火攻め? あるいは土塁に穴をあける? もしかすると川の水を引き込む気でいるのかもしれない。
勝千代は落ち着きなく縄張り図に目をこらした。
もちろん、この城をよく知る者がそういう可能性を十分に考慮しているだろう。
素人である勝千代の思い付きなど、間違いなく余計なお世話だ。
だが、どうしても気になる。しかし、何が引っ掛かっているのかわからない。
相手が左馬之助殿だということか? 自動的に曲者長綱殿を思い出すからか?
あるいは、いるはずの忍びがいないから?
いったん冷静になろう。
勝千代は床几から立ち上がった。
周囲からの目が一斉にこちらを向くが、あえて視線は返さない。
「伊豆の地図を」
「伊豆ですか? ……はい」
土井が訝し気に首を傾げてから、部屋の隅に置いてある台の方へと向かった。
やがて複数の手で運ばれてきたのは、五枚ほどの丸められた紙。伊豆の各城を中心にした地図だ。広げても覚えのある伊豆半島の形にはならないが、おおよそ網羅出来ている。
「里見水軍は、駿河湾の奥、内浦まで兵を運んだのだな?」
「かと思われます」
「韮山城にほど近く、気づかれず兵を接近させることができるからだな」
「おそらく」
逢坂の、すべて断言ではない「たぶん」の返答が気になるところだが、それは置いておくとして。
少し考えをまとめるために言葉を途切らせる。
「船で半島を大きく迂回し、それほど多くの兵を運ぶことが可能ならば、わざわざ危険な川下りをせずとも、船で狩野川河口まで運べるのではないか?」
「そもそも湊があるところは水深が深く、大きな船をつけやすいのだと聞いたことがあります。狩野川の河口ではそれが難しいのでは」
「だとしても、近くまで運びあとは小舟でなどやりようはあろう」
なんと北条軍は丸太を束ねた上に乗り、濁流をものともせず急流下りをしてきたのだそうだ。
いや急流かどうかはわからないし、想像しているよりも流れは緩やかなのかもしれないが、船より危険だと言う事は確かだろう。
それを二千五百の兵がやったのか? まがり間違えば大勢が事故死してしまうかもしれないのに?
「逢坂」
「はい」
「そのほう、丸太の上に乗って川を下れと命じられて、躊躇いなく行けるか」
「御命令とあらば」
この男に聞いたのは間違いだった。
想像したのだろう、こわばった表情をしている者がちらほら。この時代泳げない者が多いから、命がけの川下りになる。
そこまでした理由が何かあるはずだ。
今ではないといけない理由。川を下らなければならなかった理由。
改めて地図を見下ろして、夜の闇に広がっていた無数の松明を思い出す。
あれで二千。韮山城では六千の兵が囲っているのか。さぞかし凄まじい眺めだろう。
そのうちの二千五百をこちらに割いて、今は四千ほどかもしれないが。
……四千?
勝千代ははっとして息を飲んだ。
四千。いやそれでは韮山城の三千の駿河衆を攻め切ることができない。攻城戦には少なくとも倍量の兵がいるのだろう?
北条殿が一か八かのことをするだろうか。そもそもそういう状況なら、長久保に兵を割いたりはしないのではないか。
ドクドクドクと心臓の鼓動が早まる。
もしかすると、という危惧が膨らんでくる。
「丸太か」
川を下らなければならなかったのが、奇襲のためだけでなければ。
韮山への増援、あるいは補給を断つという目的だけでなければ。
北条兵が上流から流した丸太を、たどり着いたあの場所で組み立て、秀吉の一夜城ではないが、防衛の拠点となる砦でも建てる気ではないか。
何のために? もちろん、長久保を確実に落とすためだ。
この城を押さえたら、韮山城はほぼ孤立する。補給を断たれて籠城を続けることはできず、討って出るしかなくなるだろう。
「五日以内に、北条軍は更に兵を増し、総攻撃をしかけてくるやもしれぬ」
「……は?」
普段から勝千代の側にいる者たちは、単純によくわからないという表情をしたが、そのほかの者たちは、何を言っているのだとこちらの正気を疑う顔つきだった。
井伊殿の増援が長久保城に到着するまで、早く見積もって四日。あるいは五日。
忍び使いの北条軍がそれを知らないはずはない。
ならば、この五日が勝負になる。




