50-3 駿東 長久保城3
夜が深まるにつれ、異様な静けさが緊張感を高めていく。
耳を澄ませても風の音しかしない。
空には黒々とした分厚い雲が広がっているが、眼下に続く大地は更にそれよりも闇深い。
チラチラと光って見えるのは何だろう。川の水面か? 兵が身に着けた金物か?
どんなに目を凝らしてみても、広がる大地の詳細を把握することはできない。
人類が長く戦ってきた闇とはこういうものなのだと、本能が理解する。
どこに敵がいるのかわからない。それは、か弱い人間にとってほんとうに恐ろしいことだ。
城の周辺にはあまり木がないので、葉擦れの音は聞こえない。
なんなら人の気配すらないような気がするのに、実際はこの闇のなかには二千の北条軍、千五百の今川軍が潜んでいるのだ。
通常であれば、城には松明あるいは篝火が焚かれているものだが、いくつかを除いてすべて消されていた。
そのうちのひとつが大手門の手前で、勝千代がいる本丸からもはっきりとその輝きが目を引いた。
物見の弓兵が敵に気づきやすいよう、あえてそこを明るくしているのだそうだ。
「お下がりください。そろそろ矢が届く距離です」
逢坂老の言葉に、はっと我に返る。
じっと闇を見ていると、恐怖に引き込まれそうになる。
総大将たる勝千代が怯えをみせるわけにはいかない。
「いや、まだよい」
勝千代は首を振り、静かにそう言った。
とはいえ、重く頑丈な鎧兜を装備しているわけではないので、遠射されて当たれば大怪我を負う。弓はなかなか侮れない武器で、種類によってはその飛距離は相当なものなのだ。
勝千代の周囲に明かりがないのも、それが理由だった。
「ですが」
側にいるからわかる、逢坂老が気づかわし気に顔を顰めている。
「相手もこちらが待ち構えているのを知っている。不用意に矢を射ると北条側の不利だ」
そう答えつつも、勝千代は逢坂の心配を笑い飛ばすことはできなかった。
防御施設の内側で待ち構える今川軍と、そこに攻め入ろうとする北条軍。
兵差がそれほどなければ、身を守るものがない攻め方のほうが断然不利だ。布陣場所を知られるのは避けたいはず。
だが逢坂らの心配も理解できる。
ここで勝千代の身に矢が届けば、今川軍は少なからず動揺し陣が乱れるだろう。
「……やはり大将が弱いというのはよくないな」
先頭に立って戦えるか否かという問題ではなく、自衛もできないお荷物が大将では話にならない。
「そんなことはありません!」
抑えた音量で、しかしはっきりと強くそう口にしたのは五郎兵衛殿だ。
暗闇の中でも、周囲から視線を集めたことに気づいたのだろう、はっとしたように息を飲み、「申し訳ございませぬ」と恥ずかしそうに言う。
「岡部殿の仰る通りですぞ。御大将が刀を抜くような事態になれば、それはもう負け戦です」
いや父は最前線で槍を振り回しているじゃないか。
真横に立つ逢坂老にそう言い返したかったが、苦笑するにとどめた。
そもそも父を手本になどできるはずもない。
「そろそろ降りましょう。北条は忍び使いです。夜目も効きます」
「八雲らは小太郎はいないようだと言っていたが」
「左馬之助殿がいらっしゃるのです。ここにはおらずとも、近くにはおりましょう」
確かにその通りだし、忍びは風魔小太郎だけではない。
それでもなお、食い入るように闇を覗き込んでいた勝千代の耳に、ガッ、ガッ、ガッと無視できない硬い音が届いた。
それが何かを確かめるもなく、逢坂老が勝千代の腕を引いた。
「敵襲!」
耳元でその第一声を叫んだのは三浦藤次郎だった。
次々と「敵襲!」と呼応が続き、一気に眼下の曲輪が騒がしくなる。
逢坂に引っ張られて張り出した物見の柵から離れた。
かろうじて見えるのは、柱に何本も突き刺さった矢だ。
ぎゅっと心臓が引き絞られるような恐怖と同時に、なんだろう、ぞわりとした高揚感のようなものが湧き上がってくる。
始まるぞ。
胸の内にあるのは期待か? まさか。
北条は予期していたより早く、夜のうちに攻撃を開始した。
一気に松明をともし、二千の兵が南側から城に迫る全容を見せる。
大軍だ。いや、こちらも同程度の数はいる。
勝千代は、逢坂老に腕を掴まれたまま目をこらした。
本丸から見えるものはそれほど多くはない。ただ、堀切りで敵を待ち受ける今川の兵が次々と外側に落ちていくのは見える。
身を乗り出し過ぎているのではなく、そこへ攻撃を受けているのだ。
何かしなければと逸る勝千代の腕を、逢坂老と、反対側にいる藤次郎が掴んだ。さながら誘拐されるような勢いで両腕を掴まれ足が浮く。おい。
抗議の言葉は声にならなかった。
ふたりを振り仰ごうとして目に飛び込んできたのは、一瞬それが何か形容するのが難しい物体だった。火の玉……もとい、火矢だ。
幸いにもその火矢はここまで届かないうちに失速して落ちた。やはり油を染み込ませた布の重さのぶん、飛距離が伸びないのだろう。
それにしても、直接本丸曲輪に火矢を射込むというのは相当の技量だ。
「どこから射ている?」
「山側です」
勝千代は、逢坂老と藤次郎の会話を聞いて同じように指し示された方向を見た。
この城は興国寺と同じく愛鷹山の尾根沿いにある。狩野川を下って来た北条軍は、今度は黄瀬川沿いに北上してきたはずだ。
だが射手がいるのは後方の山の方だった。
長久保城の本丸は黄瀬川のそばにあり、山からは真逆の方向だ。
この時代の城には石垣というものがなく、つまりは天守のようなものもない。せいぜい二階建ての建築物があるだけで、物見の櫓は格好の的になる。
勝千代は藤次郎が指さした山側とやらに目をこらしたが、暗すぎて何も見えなかった。
ぶら下げられるようにして運ばれ、小荷物のように小脇に抱えられてはしごを降りた。
いやもはや、本当にただのお荷物だ。
何もできない非力さに歯噛みし、安全な本丸の建屋に運ばれるに任せた。




