4-7 上京 一条邸 離れ7
去って行く足音が聞こえなくなるまで待って、ようやく腹から息を吐き出した。
何とか圧迫面接っぽいものを乗り切れた。
それにしても酷い内容だった。
謝罪云々といっていたが、彼らの目的は勝千代の身柄の拘束だったと思う。
吉祥殿にねだられたか、公方様ご本人から何か御指示があったか。
ともあれ、とりあえずは、これ以上悩まされることはないはずだ。
なにしろ「武家出入り禁止」と、権中納言様がたいそうお怒りだったから。
最悪、京を発つときに気を配る必要はあるかもしれないが、逢坂家の騎馬隊がいればなんとかなるだろう。
福島家の者たちは、荒事には慣れているのだ。
「……もういいですよ」
ため息交じりに勝千代がそう言うと、すーっと奥の襖が開いた。
丁度権中納言様がお座りになっていた左隣側だ。
襖を開けたのは鶸で、その向こうには例の二人と、いつの間にか合流したらしい女房殿がひとり、若干強張った表情をして座っていた。
「まったく。気づかれたらどうするおつもりでしたか」
身体的な危険はなかっただろうが、将来やんごとなき御方に嫁ぐ愛姫にとっては余計な醜聞になった可能性はある。
「御所でまた火が出たようです。藤波家の方でも何かあるかもしれませんから、至急お戻りになった方が良い」
そうだ、忘れないうちに、書き貯めた課題を渡さなければ。
「姫様も奥にお戻りを、御母上がご心配なさっているはずです」
「……はぁい」
姫は何か言いたげに勝千代を見ていたが、女房殿に促されて素直に北棟に戻っていった。
少々お転婆だが、優しいいい子だ。勝千代の身が危ないと思い、高貴なその御身で走って急を知らせに来てくれたのだ。
今度何かお礼をしなければ。
「逢坂、街中はおそらく混乱しているだろう、藤波の御屋敷までお送り出来るよう、護衛隊を……」
「いいや」
東雲は、御所のある方角の空を見ながら、静かな口調で言った。
「こちらに来る事は言うてあるし、何かあったら知らせを寄こすやろう。戻るのは、もう少し事が落ち着いてからのほうがええ」
表情は静かでも、そこには押込めた苦さがあり、繰り返される付け火に対する忸怩たる思いが窺えた。
だが確かに、逃げまどう者たちで混乱する街中に出るのは、それほど良い考えではないかもしれない。
「……御上もさぞ気をもんではられるやろう」
東雲はぽつりとそう独白し、形の良い唇をきゅっと引き締めた。
まだ日は高く、炎で空が明るくなっているというようなことはない。
だが、広い一条邸の奥までも、火災の煤けた臭いが漂ってきていた。
一条邸があるのは、御所からそれほど離れた場所ではない。屋敷の周辺には、火の粉避けなのだろう幾らかの空き地があったが、それで完全にもらい火を防げるかというと、なかなか難しいと答えざるを得ない。
この国の建築物は、ほぼすべてが木と紙でできていて、火災はもっとも警戒するべき急所だった。
一度大火にまで燃え広がってしまえば、できるのは延焼を防ぐ事だけで、あとは自然鎮火に任せるしかないのだ。
この時代に、大量放水が可能な消防車などありはしない。
「それに、お勝殿の護衛を減らすのも良うない」
一条邸に火が来てしまったらどうするべきかを考えていると、ふと東雲が不穏な事を言い始めた。
まさか、火事のどさくさに紛れてそのような手合いが出るとでも?
「……一条邸にまでは危険が及ばないはずです」
命を狙われる心当たりは京に来て更に増えた気がしているが、さすがにこの屋敷に侵入するのは難しいはずだ。
東雲はちらりとこちらを見下ろし、嘆息しながら首を振った。
「京のこの有様では、血迷った輩が入り込んでもおかしゅうはないし、その気になれば無理な事でもないやろう」
一条邸は、公家にしてはあり得ないほどの家人を抱え、警備も厳重だ。
だが確かに、騒ぎに紛れて忍び込むのは不可能ではないのかもしれない。
それが忍びであるならなおのこと。
いや、忍び込むのではなく、火矢を放つことが目的であれば、忍びであることすら必要ではない。
「弥太郎」
「はい」
勝千代が呼ぶと、いつものように下座の方から返答があった。
「不審者は?」
弥太郎であれば、少なくとも離れの周辺に警戒網は敷いているだろう。そう思っての問いかけに、再び「はい」と返答がある。
この男にしては珍しい、どうともとれる返答だった。
そういえば、弥太郎らは一条邸のごく限られた範囲しか入り込むことを許されていないと言っていた。
単なる居候なのだから、それも当然だと大人しくしているように申し付けていたが……
「……何かあるのか?」
勝千代の問いかけに、弥太郎は静かに頭を下げた。
「先ほど、一条家方の忍び衆が不審者を追い払いました。追手を掛けましたが見失ったようです」
忍びが見失ったという事は、相手も忍びだろう。
穏やかではない。
離れにまで街の喧噪が伝わってくることはなかったが、ますます木の焼ける臭いが強くなってくる。
……いや既に、事態は穏やかどころの話ではないな。
「警戒を強めよ」
「はい」
勝千代がそう命じると、弥太郎は普段通りの平淡な表情で床に手をついて頭を下げた。




