49-9 駿東 興国寺城 本陣5
本当に難しい。
すべての情報がテーブルに乗っているわけでも、今判明していることがどこまで正確なのかもわからないのだ。
だがすっきり明快になるまでじっとしているわけにはいかない。
そんな事をしようものなら、何もしないうちにすべてが終わってしまうだろう。
「……足柄峠から兵を引く。残すのは最小限でよい」
「はっ」
食い気味に返事をしたのは同じ遠江衆の久野殿だ。
井伊殿らを長久保に移動させる。今からだと夜になるので、伝令の往路を考えても移動に四日ないし五日は見ておくべきだろう。
つまり今すぐ動けるのは、今長久保にいる岡部家の五百と、勝千代の本陣にいる千。その中に含まれる駿河衆を使っていいものか迷うところだが、兵数は力だ。
「長浜及びその周辺の地域……何と言ったか」
「西浦です」
「その西浦にはどれぐらいの兵がいると思う?」
「そもそも湊としての要所です。北条水軍の拠点になっていたところだとは聞きますが」
勝千代は逢坂老の、正直にわからないという顔を見返した。
「長浜城は、庵原殿が仰る通りなら、駿河衆が真っ先に狙った城のひとつです。本来であれば北条側として動ける兵はいないはずです」
だが里見水軍が運んできた兵により落とされた。ならば実際にどれぐらいが防衛を固めているかは不明という事か。
仮に今川軍が補給路を遮断する位置に布陣したとしても、長浜を守る兵の数によっては、韮山を囲む兵と挟み撃ちにされかねない。
韮山城に入っている駿河衆は三千。いや実際には他にも兵を割いていて、もっと少ない可能性もある。
対する北条軍は……それだけの兵を船で運べるのかは別にして、最大を考えれば六千。里見から兵を動員できていれば更に膨れあがる。
だが籠城しているのであれば、よほどの下手を打たない限り、そうそう城は落とせるものではない。数日の余裕はあるとみるべきだろう。
問題は、承菊が諾々とその状況に甘んじているか、という事だが……それはそれで、好きにやってもらえばいい。
勝千代からできるサポートは、倍どころではない(可能性が高い)敵を相手に突撃することではなく、兵の数が多ければ多いほど問題になってくる補給を断つことだろう。
腰兵糧で賄えるのはせいぜい数日だ。人間食べる物がなくて動けるのはそう長い期間ではない。
ふと脳裏をよぎったのは、勝千代と知己の北条兄弟の顔だった。
水軍が使えるという事は、それを用いて京にいた二千の兵が海路で帰還する可能性は捨てきれない。
「長浜城の攻略が先か」
西浦の湊を押さえてしまえば、大軍も兵糧も船で輸送することはできなくなる。
正攻法で相模から攻め込んでくる、あるいは南伊豆を通って北上してくるかもしれないが、それはそれでまだ対処のしようはある。
「……あるいは小田原か」
勝千代の独白を聞いて、大人たちがぎょっとしたように息を飲んだ。
心配するな、言ってみただけだ。
勝千代にとって何より重要なのは、いかに被害を少なく戦うかで、イケイケと攻め込むつもりはない。
船団を率いて里見に攻め込むよりは、よほど実現可能だと思うが、北条の本拠地を奪うほどの労力を割いても、それをキープし続ける事が出来ないのであれば、ただの無駄骨だ。
一呼吸おいて、これしかないだろうと決意を述べた。
「長浜城を攻める」
「ここにいる兵だけでですか? 足柄峠からの合流を待つべきでは」
そう尋ねてくるのは、心配そうな久野殿だ。
そのあたりは軍議で決めようかと思うが、勝千代の存念としては井伊殿は後詰。ぶっちゃけて言うと、五日も待っていられないのだ。
「長久保の五百を含めても、こちらが出せるのは千五百。後方を突くにせよ、北条の兵にまともにぶつかるのは不利だ。それから……庵原殿」
顔をあげ、渋沢らに刀を突きつけられたままの庵原殿と視線を合わせる。
即座に身構えた嫌味男をまじまじと見て、まあこんな男だが長年今川家で御屋形様の手足となっていたのだと思い直す。
嫌いな男だが、使える者は使うべきだ。もちろん、使える範囲でだが。
「勝手な動きをすれば即座に切り捨てる。その条件で、長浜戦に参戦を認める」
認める、という上から目線の台詞に腹を立てたのはわかったが、よく考えろよ。
ここは今川本陣、総大将の軍配を握っているのは勝千代。対する庵原殿は、勝手に動いて拘束されている身だ。
「のんびり軍議をしている間はおそらくない。急ぎ決めねばならない事は山ほどあるが」
簡単に攻めると言っても、問題は多岐に渡る。
まず、近距離にある韮山を囲まれている以上、気づかれずに長浜城に向かうのは大変難しいという事だ。
兵に山の中を進ませるか、できるのかどうかわからないが海岸沿いを進ませるか。地の利がないので、どういうルートが可能性としてはあり得るのかすらわからない。
北条は忍び使いなので、興国寺城から兵が出ればすぐに気づく。どこを攻めるかも探ってくるだろう。故に、苦労して悪路を行っても奇襲はうまくいかないと思う。
韮山城にいる三千の兵を数にいれた作戦は不確定要素が多すぎるので却下。
つまりはなんだ、敵には韮山に増援に向かっていると見せかけ、実は長浜がメインターゲットだという道しかないのではないか。
兵差がそれほどなければ、韮山の三千の兵と合わせて攻勢をかけると思わせ、北条軍の包囲を崩させることもできるが……
難しい選択だが、迷っている時間も、取れる手段もそれほど多くはなかった。
「出陣の準備を長久保に伝えよ」
将を務める岡部五郎兵衛殿はまだ年若いし、実戦経験も浅いが、岡部家はもともと前線要員が多い。父親は歴戦の武将だったし、古参の配下もいる。戦いにおいての不利があるとするなら、最前線だというのにたった五百という兵数だろう。
「急ぎ合流しても夕刻になるだろう。そこから軍議、その後恐らく夜のうちに総出での出陣だ。用意を整えておけ」
「お待ちください! 若が直接出られるのですか!?」
逢坂老の大声に、立ち上がりかけていた者たちが腰を浮かした状態で固まる。
大人たちは改めて気づいたように勝千代の、頼りない小柄な姿に目を向けた。
数え十歳にしてみれば小柄で、骨からして細そうな童子だ。
元服はもちろんまだ。馬に乗るのもやっとの事。刀など練習用しか握ったことはない。
だがそれがなんだ。五郎兵衛殿だって十代半ばだし、突っ立っている駿河衆の若手にも似たような年頃の奴らは多いだろう。
この時代、元服しているか否かが大きな分かれ道なのだが、今はそれを気にしている場合ではない。
勝千代は立ち上がり、すっと扇子を腰に差した。
固まっていた大人たちが、何も言わず弾かれたように動きを再開した。
「若!」
難しい顔をしている逢坂を横目で見て、勝千代は「では参ろう」と軽い口調で言った。
まるでいつもの乗馬練習の時のように。子供が友人を釣りに誘うかのように。




