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春雷記  作者:
駿河編

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49-8 駿東 興国寺城 本陣4

 一瞬時が止まった。

 誰も微動だにせず、陣幕を揺らす風の音だけが聞こえる。

 少しでも動けば頸動脈を切り裂かれるだろう状況に、庵原殿は凍り付いていた。

 その配下の者たちも、あっけなく主君の首に刃を突き付けられ、どうして良いかわからない様子で固まっている。

 頬あてで表情が伺えない渋沢と、小柄だがギラギラと殺意の満ちた目をした谷と。この二人なら「やれ」の命令が終わらないうちに一瞬で庵原殿の首を落とすだろう。

 二人の事を知らずとも、その事は明白だった。

 誰も何も言わなかった。

 谷などは確実にその号令を待っている風だったが、勝千代はただ、つまらないものを見る目で庵原殿を見上げた。

「御屋形様は御存知だった。知っていて、そのほうらを泳がせていた」

 庵原殿は何かを言おうとしたが、谷の突き付けた切っ先が首の皮膚に食い込んだようでハクハクと口を開閉しただけだ。

 

 視線の片隅で誰かが動くのに気づき、勝千代がそちらに視線を向けると、どこからか見慣れぬ男が近づいて来た。

 地味な小者装束の、二十代半ばほどの男だ。

 勝千代の護衛たちが警戒するそぶりを見せたが、少し距離を開けて立ち止まった彼の、隠しようもなく特徴的な見た目にすぐにそれが八雲だとわかった。

 あんな顔をしていたのかと、改めてまじまじ見つめると、八雲はその場で片膝をついた。

 勝千代の影供筆頭を務めるこの男が表に出て来ると言う事は、よほどの何かがあったのだ。

「何があった」とは尋ねなかった。

 聞きたくない気持ち半分、聞かずとも言うのだろうという諦観半分。

 逢坂老が八雲に近づき、身をかがめて報告を受け……その目がカッと目を見開かれた。

 皆の視線が逢坂老に集中している。だが勝千代は、静かに頭を下げてフェードアウトしていく八雲を目で追っていた。

 ほんのわずかに足を引きずっていた。手練れの忍びがそれとわかるほどなのは、よほどの負傷なのかもしれない。

 その時、何故か思い出したのは佐吉の顔の青痣だ。

 どちらも詳しい事はわからないが、陰で働く忍びたちの、目に見えないところで命を懸けるその意味に思いを馳せた。現実逃避ではないぞ。純粋に感謝の念だ。

 そうやって命を懸けてもたらしてくれた情報に、勝千代は瞠目し、庵原殿は声にならない悲鳴を上げた。


 北条軍、韮山城を包囲。

 街道を越えて迫っているという情報はなかった。山越えをしたというにも、伊豆半島南方から攻めあがってきたというにも早い。

 つまりは、水軍が兵を運んだのだろう。

 伊豆半島を迂回して? 同じ駿河湾内なのだから、それだけの船団が動けばさすがに目立つ。

「夜陰に紛れ幾日も掛けて長浜城まで運び、明るいうちは露見しないよう兵を潜ませていたようです」

 逢坂老が八雲から聞いたのであろう情報を口にすると、「そんなはずはない!」と庵原殿が大声で怒鳴った。

 この状況で暴れようとするから、容赦など知らない谷の切っ先が首筋の皮を破り結構な量血が流れる。

 それでもなお庵原殿は大声で「長浜は我らが落とした!」と言い張り、さすがに見かねた配下の者が錯乱状態のその腕を掴んだ。


「長浜城はこのあたりです」

 逢坂老が指し示す位置は、駿河湾の奥深く、伊豆半島の付け根の位置だ。

 この地図では山の中なのか平地なのかも定かではないが、「韮山」というぐらいだから山城あるいは興国寺城と同じ平山城だ。

 勝千代は、思いのほかに近い韮山と駿河湾との距離を目測した。

 地図の縮尺などわからないが、おそらく十キロもないだろう。単純に韮山城と湾までだけならもっと近い。

 なるほど。

「要は奪い返されたのだろう」

 勝千代は美形の僧形の顔を思い浮かべながら、いつの間にか真向かいの床几に座らされている庵原殿に目を向けた。

 承菊は、北条と里見の同盟の事は知らずとも、長浜城に敵が大挙している事に気づいたのかもしれない。

 だから、興国寺城まで庵原殿を逃したのか。

 このタイミングであれば非難されることはなく、むしろ援軍を期待できる。

 庵原殿に気づかれずに先を見据えて動くのは慧眼だが、そもそも北条兵に囲まれてしまう前に動くべきだった。

 兵を引いていれば、北条も無理には後を追ってこず、韮山城を奪い返したことで満足してくれたかもしれない。

 承菊らに城を守る自信があったのか、あるいは、引くに引けない状況だったのか。

 昨晩の段階ですでに北条兵が長浜城にいたのなら、今頃はもう戦いの火ぶたは切られているかもしれない。

 勝千代は頭の中で、この先どう動くべきなのかと考えた。

 恐れていた里見水軍の動きは把握できた。

 北条の兵を長浜城に運んだのなら、駿河方面への大きな奇襲はないと思っていいだろう。

 先の事を考えると頭が痛いが、とりあえず今は。


 そわそわと立ち上がろうとする庵原殿の肩を、その側付きが抑える。

 いまだ二人がかりで刀をつきつけられているからなのだが、庵原殿はそれに対して「裏切るのか」「わしを殺そうとたくらんだのか」と唾を飛ばす勢いで怒鳴っている。

「北条軍の数によっては、韮山は落ちる」

 勝千代がそう言うと、周囲全方向に毒を吐いていた男がさっとこちらにターゲットを絞った。

「援軍を貸して下され! すぐに行かねば城が! 承菊が!」

「戦況も調べぬうちには動けぬ」

「何を呑気な事を! ええい、わしに軍配をよこせ! 興国寺と長久保の兵を率いて……」

 不愉快な怒声に不快の表情を返す。

 息子や側付きに命を救われたというのに、それに気づきもしない愚物だ。

 軽蔑の目でその無様さを見下すと、何故か庵原殿の動きが止まった。


 城を囲む兵の背後を突くのは、悪い策ではないのかもしれない。

 ただし、敵の兵数や配置を把握しないうちに突進しようとするのはどうなのだ。

 敵がそれに警戒し、備えていないはずがないじゃないか。

「援軍を出さぬとは言うておらぬ」

 勝千代はパチリと扇子を閉じ、卓上の地図の韮山城の部分を指し示した。

 その後に、少し考えて、駿河湾の深い位置にある長浜城。

「動くとするなら、まずは補給路の遮断だろうな」

「そ、そんな悠長な」

「そのうえで先に長浜の方を攻め、退路を断つ」

 勝千代はコンコンと卓を叩き、そのまま扇子を川沿いに伊豆半島南部へ向けた。

「北条軍が里見と合流できぬように手を打つ。引いてくれるか否かは、兵数によるだろう」

 北条の忍びは手練れぞろいだ。小太郎が早くもこの地に戻っているのなら、下手に忍びを使って情報収集するのは危険だ。

 視線を伊豆半島の南端、更にその先にある安房がある方に向ける。

 いっそ安房に攻撃を仕掛けるというのはどうだ。

 彼らの水軍は北条兵を運ぶために出払っていると思う。その隙になら無理ではないかもしれない。

 残念ながら今川にそれだけの兵を運ぶ船はない。……いや何も今川が攻めずともよいのではないか。

 勝千代は地図の隣に置かれた、扇谷上杉家からの返書に目を向けた。

 当たり障りなさすぎる親書に返ってきたのは当たり障りのない返書だが、意外と好意的な内容だった。

 まあ、江戸城を奪い返すことが出来たのだから、リップサービスぐらいするだろう。

 一瞬、内房と武蔵との連合で北条里見を包囲する案が浮かんだ。

 いや、駄目だ。机上の空論で考えてはいけない。どこの国にも罪なき人々はいて、戦は否応もなくそんな者たちを巻き込んでしまうのだと胸に刻むべきだ。

 無理ではないと思うのは傲慢だ。空論の策で戦線を広げるなど、桃源院様と同じになってしまう。


 勝千代は熟考しながら、コンコンコンと卓をノックし続けた。

 周囲が、いや特に庵原殿がやけに強張った表情で勝千代を見ている事に、その時は気づいていなかった。

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― 新着の感想 ―
チート坊主こと雪斎さんが失敗したんか
[一言] 庵原殿は誰の姿をお勝様にかさねてるのかしらね
[良い点] >「何を呑気な事を! ええい、わしに軍配をよこせ! 敵意があっても、勝千代が遠江勢と駿河若手の采配を取ってる事を認識してる。 [一言] >一瞬、内房と武蔵との連合で北条里見を包囲する案が浮…
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