49-7 駿東 興国寺城 本陣3
ならば地上の兵を海岸に向けて……とはいかない。
仮に海岸沿いにあるどこかの城ないし町に兵を集めたとしても、機動力のある水軍が、わざわざ待ち伏せされている所に乗り込んでくるとは思えないからだ。
当然だが、今川領にあるすべての港町に兵を分散させるのもうまい手とはいえない。
そもそも、港でなければ上陸できないというものでもないし。
水軍には水軍を当てるのが定石なのだろうが、残念ながら今川家には里見水軍に張り合うほどの水軍はなかった。全滅させるとわかっていて、小勢の彼らを使うわけにはいかない。
では、どうする?
「相手方が得意の海戦にもっていかず、陸地に誘い込めればやりようもあります」
連中をどこかに上陸させ、内陸部に引き込むという案を出す者。
「船は火に弱いと聞くから、真っ先に連中の足を奪うべき」
あえて船団に攻め込んでいこうと意気込む者。
「いや、北条の兵を積み荷として運んでくるのだろうから、うまくはいくまい。ならば……」
慎重論を唱えて顔を青ざめさせる者も多い。
どれも一長一短、そもそも陸兵ばかりの集団なので、水軍を相手にするなど勝手が違い過ぎるのだ。
あらかたの意見が出そろった後、大人たちの目が上座の勝千代に向かった。
今後の方向性を決めなければならない。
朝比奈殿はこの本陣にはいない。井伊殿もだ。既に軍はわかれ、方々の防衛地点に散らばっている。
この軍議を行う前に、急使でこの件を伝えたが、彼らとて純粋な陸兵、すぐにどうにかできる問題でもない。
縋るような男たちの視線が重い。
「申し上げます!」
息詰まる沈黙に身じろぎひとつせずにいた者たちが、はっとしたようにその声の方を振り返った。
なんだなんだと皆の視線がうろつく中、陣幕の外からざわめきが伝わってくる。それは次第に大きくなり、足音からそれなりの人数が近づいてくるのがわかった。
おそらくは敵ではない。だが張り詰めた空気から、純粋な味方とも言い切れない。
「庵原軍です」
すっと近づいてきてそう言ったのは南だ。
庵原? 承菊か? 今頃何をしに来た。
「無礼であろう!」
そう叫ぶのは陣幕の前にいた逢坂老だ。
「元服もまだの御方であろう」
やけに空々しく明るいその声に、生理的な悪寒が背筋に走った。
実の息子を溺愛する嫌味の権化、庵原殿だ。
確かに敵ではない。敵ではないが……
「……よい、通せ」
勝千代も大概苛立っていたので、つい声が荒くなった。
それに対して、木偶の坊のようにつっ立っているだけだった駿河衆若手が咎め立てるような表情をする。
意気揚々と陣幕をよけ入ってきたのは、薄青の差し色が目を引くなかなか派手な装いの庵原殿だった。
意味ある会話が成立しないこの男より、息子の承菊と話したいところだが、美形の僧形はいなかった。
庵原殿は最上座に座る勝千代を見て、露骨に侮蔑の笑みを浮かべる。
「このような所までいらっしゃるとは、わがままが過ぎますぞ。戦は遊びではございませぬ」
庵原殿の側付きたちは皆屈強で、上から下まで武骨な鎧兜に身を固め、陣幕内で額を突き合わせている面々より明らかに威勢がよかった。
壁の飾りのようだった駿河衆若手が、さっと庵原殿側に立ったのもよくない。
北条が里見と組んだと聞き、慌てて動いたのだろうか。伊豆は捨てて、とりあえず駿河を保持しようと?
あるいは、承菊があえて父親を総大将にするべく興国寺城に行かせたのかもしれない。
勝千代が連れてきた遠江衆が五千、駿河衆は二千。伊豆に侵攻した駿河衆が三千だ。
兵数的には庵原殿が勝千代に代わり総大将を名乗り出るのは的外れな事ではない。
勝千代は手で弄んでいた扇子を、ぱちりと鳴らした。
その音にびくりと反応したのは、何故か味方側の男たちだ。
「謀反か。この時世によい度胸だな」
「何をおっしゃる。我らは……」
「誰の許しを得て伊豆に踏み込んだ。同盟国への奇襲に、御屋形様の許可を得ないとはどういうことか」
庵原殿は笑い飛ばそうとして、勝千代の丁寧さをかなぐり捨てた口調に気づいたようだった。若干言葉に詰まり、顔を顰める。
「何もわからぬ子供が何をおっしゃる」
「何もわかっておらぬのはそのほうらの方だ。物事には道理がある。そんなにも伊豆が欲しいのなら、同盟を破棄してから攻め入るべきだった」
「この戦乱の世に何を呑気なことを!」
「呑気というか。そのほうらは欲に駆られただけであろう。おかげで北条は里見と組んだ。伊豆を取り切れるかは怪しいな」
「……なっ、なにを」
勝千代の言葉を聞いて、庵原殿はさっと顔を強張らせた
ああなるほど。北条里見の同盟は知らなかったのか。タイミングから考えても結びたてだろうから、まだ知らなくとも無理はない。
おそらくこれまではそういう気配もなかったのだろうし。
なかなかやるなと感心できるのは、無関係な者だけだ。
当事者としては、直接命に係わる大きな趨勢の変化だ。
北条が南武蔵を放棄してこちらに向かっているということぐらいは……認識しているよな?
勝千代は庵原殿の強張った顔をじっと見上げた。
床几から立ち上がりもせず、丁寧な言葉遣いでもない。
そのことに気づいたのだろう、陣幕の際にいた遠江兵たちがじりじりと庵原殿らの退路を断つ位置に移動する。
彼らがどれぐらいの数で来ているのかは知らないが、状況から見てもそれほど多くは割けないはずだ。
百か? 二百か? その程度の数ならなんとでもなる。
だが問題は、そんな動きをすれば決定的に駿河衆を敵に回してしまうということだ。
そう思ったから、庵原殿はわずかな手勢で興国寺城に来たのだろう。
何をしたって、己らが必要とされていると過信している。
馬鹿だな。敵意を見せれば、敵意を返されるのは当たり前じゃないか。
勝千代がいつまでもニコニコ受け身でいると思っていたのか?
「謀反ではないというなら、御屋形様の裁可が下りるまで謹慎せよ」
勝千代はみるみる赤黒く染まってく庵原殿の顔を、瞬きもせず見つめ続けた。
内心どう思っていようとも、それを面に出すのは下策だぞ。
「勝手に動くのであれば、今川と袂を分かつぐらいの気概を見せるべきであったな」
真顔でそう言うと、庵原殿は思わずなのだろう、憤怒の表情で刀の柄に手を当てる。
……それを待っていたのだ。
「渋沢」
「はい」
庵原殿らに気づかれることなく、その背後に迫っていた渋沢と谷が、音もなく刀を抜いて庵原殿らの抜刀を防いだ。
ギラリと陽光をはじく湾曲した刃が、ゴクリと上下に動く飛び出た喉ぼとけの寸前に突き付けられる。
「……さて、お遊び気分なのはどちらだ?」
小首を傾げた勝千代の問いに、答える者はいなかった。




