49-5 駿東 興国寺城 本陣1
のびのびと歩いている軍勢を尻目に、尻の痛みに耐えながら背筋を伸ばして長旅を耐えた。いやマジで洒落にならん。なんでゆっくり歩くんだ。馬なら走るべきじゃないのか?
走ったら走ったでグロッキーになること請け合いだが、こうも長時間馬上に据えられ続けるのは拷問だ。
令和の時代なら車や電車ですぐ着く距離なのに、この時代に大軍で動くとなれば想像以上に時間がかかる。
四年前にも掛川から曳馬まで大軍で移動したが、距離もかなり違うし、足場が悪い分それよりもっと大変だった。
更にはタンデムと一人乗りとでも負担が違う。鞍にはサスペンションもクッションもないので、馬上で姿勢を保っているだけでもかなりの体力を浪費するのだ。
何より、普段生活している分には忘れているほどだった脇腹の傷、例の老女に切り付けられたところが今更ズキズキと痛む。
体調はもちろん下降の一途。吐かず、熱も出さずに耐えたのは奇跡だと思う。
道中土地土地の国人やその雑兵を拾いながらゆっくりと大軍は進み、目的地にたどり着くまでに十日近い日数が必要だった。
左手の富士山の威容にも目が慣れ、泥と倒壊した建物の残骸とがひしめく沼地を右手にひたすら東に進むと、正面に富士山とは違う山が近づいてくる。
興国寺城は愛鷹山の南側にある平山城で、二つの街道が交差する要所にあり、それなりの城下町を抱えていた。
この時代の常として、山の木々の多くが伐採されているので、本丸から軍勢の連なりが余すところなく見渡せる。
ようやく本陣となる興国寺に落ち着いて、どっと込み上げてくる疲れに座り込みたい気持ちを堪えつつ、遠く地平線まで軍勢の波が続く様をその目に刻んだ。
うららかな陽光に武具が反射し、目を細めると大河のうねりと水面の照り返しのようにも見える。
そんな情景を目の当たりにして、この時代に生まれ育った武士であれば武者震いのひとつでもするのだろう。
だが勝千代の脳裏をよぎるのは、曳馬城の惨状だった。
風に混じる血と脂と何とも言い難い悪臭。大地にこれでもかと染み込むどす黒い血。死者への敬意などなくゴロゴロと積み上げられた遺体。
あんな地獄など二度と見たくはない。心からそう思うのに、逃げてはいけないと理性が背中を押すのだ。
彼らに武器を握らせているのは他ならぬ自分だ。
ならば見届けるべきだと、怯える心を押さえつけながら思う。
今川の本陣は興国寺城に置かれた。
部隊の配置は三方向。北は甲斐の抑えとして朝比奈。南は伊豆の後詰として岡部。足柄方面へは井伊殿及び駆けつけてきた原殿らが布陣している。
陣容の内訳はおおよそ三分の二が遠江勢、残りは現地調達の雑兵だ。駿河の国人のすべてが伊豆に出払っているわけではないが、富士川の氾濫で被害が大きかった地域は申し訳程度にしか兵を出すことが出来ず、やむを得ない事だが駿河衆のほとんどが軍勢には含まれていない。
張られた陣幕のうちにいるのは各国人の三男以下、あるいは分家の若手のみ。意気揚々と声も大きな遠江勢の多くが出払ってしまえば、残るのは言葉少なく肩身狭そうなひよっこたちだ。勝千代自身が八歳の子供という事もあって、そこだけ見れば緊張感に欠ける顔ぶれだった。
「北条は江戸城を放棄したように御座います」
勝千代の前に膝をつきそう報告をするのは、物々しく真っ赤な鎧兜の逢坂老。表には出る事のない忍び衆からの知らせだろう。
勝千代は、鎧に着られたような小僧どもの視線を浴びつつ、妙に白々とした空気だなと感じながら頷きを返した。
「扇谷上杉の城代を裏切らせ落としたと申しておったな」
そう答える勝千代からして、小具足姿ですらなく通常の直垂、手に握っているのは武器ではなく扇子だ。
「はい。せっかく奪った南武蔵ですが、相模を守り伊豆を取り返すことを優先させるようです」
それはそうだ。勝千代でもそうする。
つまりは相模の六千の兵がまっこうから今川に向かってくるということだ。
ざわりと全身に鳥肌が立った。もちろん武者震いではない。
敵味方入れると一万五千もの生死を分ける大戦になるのだ。仮初とはいえ、元服前の身で総大将役をつとめるのは荷が重すぎる。
「伊豆はどうしている」
「取り急ぎ韮山で防衛するようです」
自領を離れ、こちらは後詰の遠江にお任せか。いい気なものだ。
ふと浮かんだ承菊の顔に表情が渋くなる。
河東の国人領主たちの合意を得て、伊豆まで引っ張って言ったのは間違いなく承菊あるいは庵原殿ら駿東の有力者だ。
いっそ彼らの城を奪ってやるのはどうだろう。そんな考えを弄びながら、じっとこちらを見ている駿河衆の青年たちの視線から顔を背けた。
「伊豆からくるか、足柄峠からくるか」
兵を二分することはないだろうというのは勝千代の勝手な予想だ。
勝千代が用意した兵の総数はおおよそ七千。兵站を含めれば八千を超える。伊豆にいる駿河衆を除いての数なので、なかなかの陣容だといえる。
たとえば北条軍が伊豆を外して直接こちらに攻め込んできたとしても、対応は可能だ。
万が一にも甲斐と時を合わせてきた場合でも同様。
大丈夫。戦慣れしている遠江衆がおいそれと下手を打つことはないはず。
だが兵数に大差があるわけはなく、戦死者がゼロという訳には当然いかないだろう。
必ず誰かが死ぬ。いや誰かではなく、勝千代が知る具体的な何者かが命を落とす可能性は十分にある。
少しでも被害少なく、最大の戦果を得るよう動かなければ。
それはつまり敵を、つい先日まで同盟国であった北条軍相手に死体を積み上げるという事だ。
怖い。
血まみれの死体が積みあがっていくイメージが勝千代の精神を圧迫する。
ドクドクと胸を打つ鼓動に手を添えた。
恐れてはいけない。躊躇ってもいけない。
それができると思ったから、反対を押してここへ来たのだ。
実際に戦う者たちの足手まといになるわけにはいかなかった。




