49-4 駿府 今川館 出陣
時は流れていく。
何をするにも時間がかかるこの時代、起こっている事を正確に把握するには一か月でも足りないかもしれない。
そんな中で早期に判断を下すというのは難しい事だった。
たったひとつの過ちが大勢を殺す。今勝千代がいるのは、そういう立場だ。
「……本当に行かれるので?」
井伊殿にそう問われるのも五度目だ。
もはや返答もせず、苦笑した。
戦えもせず、言ってはなんだが早馬を駆る事すらできない子供など足手まといもいいところだ。むしろ護衛や付き添いが必要な分手間だろう。
わかっている。わかっているが、皆を戦場へ送り出すというのに、ひとり安穏と駿府に残ることはできなかった。
井伊殿の隣には、同じ遠江衆の原殿や久野殿らがいる。天野殿には信濃三河への対応を任せた。残りの多くの国人領主が、意気揚々と駆けつけてきたという感じだ。
「いくらか兵を興国寺に残して……」
こそこそと額を突き合わせて話し合いをしている遠江衆らとともに、これから河東へ向かう。
大軍を引き連れての移動なので、早馬を飛ばすより倍の時間が掛かるだろう。
水は引いたとはいえ、足元が緩い富士川の湿地帯を迂回していくのも大変だと思う。
正直なところ、これだけの軍勢を河東へ配備するだけでもとてつもない労力だ。
「小荷駄隊は随時送ります。清水に米がたんまりあります故に、兵糧についてはご安心を」
帳面片手にそういうのは奥平だ。
四年前よりは生え際が後退しているが、烏帽子をかぶっているので目立たない。
この男に関しては烏帽子効果で男前度倍増だ。
泣きべそ顔の情けない様を見知っているだけに、いかにも能吏然とした立ち居振る舞いに咳払いしたくなってくる。
だが奥平の後ろにならぶ幾人もの文官たちも、決意を込めた表情で頷いているので、任せても大丈夫だろう。
今川館の奥の方から騒めきが伝わってきた。
御屋形様か、誰か重要人物が来たのかと思いきや渋沢だ。
並んで歩いているのは直垂姿の興津で、なんならこの男のほうが身分的には上なのだが、目立っているのは断然渋沢の方だった。
上から下まで真っ黒。もちろん飾り紐などの差し色はあるが、全体的に黒々とした鎧兜姿だ。せっかくの男前も黒い頬あてで隠れ、かろうじて見えるのは目元だけだが、それでもなおスター的オーラを漂わせている。
やる気満々というか、一刻も早くこの場から飛び立ちたがっているとでも言おうか。
見送りにきている女性陣のことなど気にも留めず、さっそく知己の遠江衆と挨拶を交わしている。
その騒ぎに苦笑した興津が勝千代に目礼してくる。
勝千代や渋沢が出払うと決まって、興津は自身の親族や配下を呼び寄せていた。
興津家の親族は半分が駿河衆で、半分が遠江にいる。個人的な印象だが、優秀で実直な者が多い。
ちなみに駿府は若干手薄になるが、駿東に朝比奈殿、詰め城がある賤機山には、まだ床に臥せってはいるが一門衆の八郎殿。万全の備えだとは言えないが現状駿府を直接狙える軍勢はない。
気を配っておくべきは内々の反抗勢力だが……表立っては力を削いでおいたし、実は堀越の妙姫にこっそり奥の差配を頼んでおいたので、深刻な事態が起こる前になんとかなるだろう。
「御武運を」
興津がその人がよさそうな顔に困ったような笑いじわを刻み、どっしりとした声で言った。
勝千代自身は戦うことなどないだろうが、それでも、本陣を預かるということはすべてがこの頼りない両肩にのしかかってくるという事だ。
「駿府のことはお頼みいたします」
「なに、小揺るぎもいたしませんとも」
勝千代は小さく首を上下させて頷いた。
二人で並んで、出陣の時を待つ武士たちを見回す。
「大きな戦になりそうですな」
興津の気がかりそうな表情に、いまだに和睦で解決しないかと思っている勝千代は無言を返す。
己のその甘い認識が、いつか大きな失敗につながってしまいそうで怖い。
「……兵庫介叔父上の事ですが」
興津は今川軍の趨勢について心配しているが、勝千代にはここ駿府にも心残りがある。
御台様も桃源院様も動けないだろう。兵庫介叔父も主だった高位文官たちも捕えている。
だがしかし、勝千代の不在をチャンスととらえて動き出す者たちがいないとも限らないのだ。
「謀反の動きがあれば、福島家の事は気になさらないでください」
主だった者の動きは封じているが、それでもまだ安心できるほどではない。
「……よろしいのですか」
「もはや分家というよりも他家の者です。それよりも、御屋形様と上総介様の御身を」
勝千代の言葉は、どんどん、と足を踏み鳴らす音にかき消された。
大将クラスの鎧兜が左右に並び、今川館正門に向かって道を作っている。
勝千代は手に持っていた扇子を腰に差した。
「それでは、行ってまいります」
興津とその親族、奥平とその背後にずらりと並ぶ文官たち。
「御屋形様にはご挨拶できませんでしたが、よろしくお伝えください」
「留守はお任せを」
勝千代は、上の方にある興津の丸顔を見上げ、頷いた。
どんどんどん、と大地を踏み鳴らす音。
大きく開け放たれた正門の向こうに、武骨な鎧兜の武士たちがずらずら並んでいるのが見える。
勝千代は促され歩きだした。
八歳の子供の、小さな一歩だ。
ずかずかと歩く鎧武者の歩幅の三分の二ほどだろうか。回転率を上げ速足で歩いてようやく足並みがそろう。
今川館の正門と掘り橋を抜けると、駿府の町並みが広がっている。
京に似せて碁盤目状に広がった、美しく整備された大通り。居並ぶ武士の背後には、かなりの数の町人たちがいる。
安倍川は氾濫せず町は無事だったおかげで、被害なくほとんどの者が戻って来ていると聞く。
勝千代は、大通りのど真ん中で待つ十騎ほどの大型の軍馬に向かって歩いた。
大柄な福島家の男のために育てられている馬なのは、その体格の良さから一目瞭然。
そのうちの良く見知った一頭が、周囲から浮いて見えるほど華やかな装いで飾り立てられていて、勝千代に気づいてブルリと鼻を鳴らした。
え? こいつに乗るの?
乗馬は練習中。乗り降り程度なら慣れてきたし、並足で近距離ならいけると思うが……
葦毛の牡馬は、いつも勝千代を見ると派手に鼻を鳴らし、足を踏み鳴らし、油断すると髪を齧りにくる気性の荒い奴で、一度も長時間背に乗せてくれたことはない。
そんな白桜丸の轡を握るのは赤い鎧の逢坂老の次男だ。
大丈夫なのか。
これだけの衆目を浴びているのに、気分が乗らないと乗馬を拒否されたらどうするんだ。
白桜丸はぶるぶると不穏な感じで鼻を鳴らしながら勝千代を認識した。
二回に一度は乗るのを拒否される仲だが、空気をきちんと読んでくれた。
とはいえ一瞬、その鼻づらが頭上を掠め、髪を齧ろうとしたのはわかったぞ!
とっさに頭部を庇ったのは、周囲にはどう見えただろう。




