49-3 駿府 今川館 本殿
「韮山城を落としました」
勝千代は、意気揚々とそう報告する急使の顔を見つめて、もはや引き返せないところまで来たのだと悟った。
国境の砦や城を奪うのももちろん大問題だが、ここまでくれば言い訳は利かない。
いずれ駿河衆の手により伊豆は落ちるだろう。
相模の北条殿が江戸城攻めに気を取られ、伊豆をガラ空きにしたままでいたのは、ここに至るまで今川と長く強固な同盟を結んでいたからだ。まさか裏切られるとは思ってもいなかったはずだ。
信頼に裏切りを返すなど、もっとも避けたかった事態だった。
だがしかし、桃源院様が切り捨てられた時点で、すべては始まっていたのだろう。
「……わかった」
勝千代の渋い表情に不服を隠さない急使には、目の前のこの状況しか見えていないのだと思う。
だがわかっているのか? お前たちが奪ったのは同盟国の城だぞ。
本来ならここで、味方の被害などを聞くべきなのだろうが、そんな気にもならなかった。
鼻息荒い急使の表情を見るだけで、圧勝だったのがわかる。
少し前の遠江と同じく、伊豆はがら空きだった。切り取り放題の餌場だ。
これで取れなければむしろ伊豆側の備えに感心する。
肩を怒らせた急使が下がっていく。
それを見送って勝千代はパチリパチリと扇子を開閉した。
「承菊殿でしょうか」
井伊殿のつぶやきに、「おそらく」と小声で返す。
あの男前坊主の策略で突き進んでいる駿河衆に、大きな被害はないのだろう。
「これが遠江でも起こっていたかもしれぬと思えば、恐ろしいですな」
そのために誠九郎叔父が死に、父も左目を失ったのだ。父らがいなければ、今の伊豆と同じく大きく切り取られていたのかもしれない。
「戦線を相模国境まで上げましょう。足柄峠を増強する必要があります」
相模と駿河の国境には小城があるが、国境のラインなど目に見えるものではないので、早い者勝ち言ったもの勝ちなところがある。
これまで敵対することなどなかったので、無防備な城であり街道だった。戦略として、伊豆を外してそこから攻め込むこともできる。
北条が動かないうちにそのルートを押さえておくべきだろう。
「城主はなんといいましたか、小森?」
「大森殿です。北条色が強い国人のようですな」
しきりと顎をさする井伊殿に、小さな溜息をついて返す。
国境の小領主がそうなのは、どことも同じだ。
今川が大軍で押し寄せれば、こちらにいい顔をするだろう。だが逆もまたしかりなので、やはり早い者勝ちになりそうだ。
「左馬之助殿は戻ってくるでしょう」
何やら小細工をしているようだが、そんな確信があった。
勝千代のつぶやきに、少なからず彼と接したことのある者たち皆が難しい顔をする。
「あの御方でしたら、既にもう近くまで戻って来ておるやもしれませぬな」
逢坂老の言葉に鳥肌が立つ。そんな恐ろしい事を言わないで欲しい。
怖いのは猪突猛進系の左馬之助殿ではなく、その周囲の、遠山であり風魔衆であり、外せないのが長綱殿だ。
勝千代の中では、左馬之助殿の謹慎が策略だろうという確信があった。
すでにひそかに兵を分け、こちらに戻る算段をつけている気がするのだ。
「伊豆を奪い返しに来るでしょうか」
勝千代自身は伊豆攻略に関わる気はない。後詰がせいぜいだ。
だからといって、今川家の名のもとにしでかした一方的同盟破棄が、なかったものになるわけではない。
井伊殿が顎を擦るのをやめて、上座に座る勝千代の方に視線を向けた。
「いや先に北条軍の立て直しではないでしょうか」
北条は江戸城を落とした。
扇谷上杉家は北へ兵を引いたが、まだ勢力は衰えておらず、南武蔵を切り取ったので今度は房総半島にも警戒の目を向けなければならない。
「……厳しいですね」
思わず北条側に立った視点でそんな事を呟く。
北条が東に版図を広げ得たのは、後方から攻め入られる恐れがなかったからだ。これより先、今の勢力範囲を守るのは苦しいだろう。
そう考えればやはり、北条軍立て直しの方が優先か。
「伊豆を切り取るにはよい時期だったのやもしれませぬな」
逢坂老の言葉に、勝千代は何も返さなかった。
井伊殿だけではなく、勝千代の側付きたちのほとんどが、北条と手切れになったことに関してはたいして深刻にとらえていない。
そもそもこの時代、油断をしたら領土を切り取られるのは当たり前の事なのだ。
同盟とか親族間のなあなあとか、そういうものよりも、より強くより広く国力を高め、生き延びることこそが正義だ。
信頼していた臣下からの下克上も、例えば親子兄弟間での血みどろの争いも、すべてはこの時代では普通にあり得る事。
つまりは伊豆に攻め入った駿河衆とて、今川家の為だけに戦っているわけではなく、それは彼ら自身で選択した彼らの為の戦いなのだろう。
「……どこまでお考えだったのでしょう」
血を分けた実の父は、かつては血気盛んな征服者だった。
戦にではなく病に倒れ、長く表には出て来なかったが、死期が近くなった今頃になって、最後の仕事をしようとしているのかもしれない。
結果を見てみろ。
駿河の国境付近のどっちつかずな国人たちは追い払われたし、伊豆はもうすぐ落ちそうだ。
信濃のほうはどうだ。遠江に色気を見せていた勢力は追い払われ、今は国の中で揉めている。
三河方面も、警戒するべき松平ですら内紛に揺れ、今はもう小粒な者しか生き残っていない。
「朝比奈殿が武田も追い払いましたしな。あそこは去年も凶作だったと聞きます」
確かに今川家は多方面に敵を抱えているが、国土が広く、国力も高い。国内がまとまれば、今の周辺諸国で対抗できるところはいないだろう。
すべて、病床にある御屋形様の手のひらの上だったのか?
あり得そうで恐ろしく、そんな人物と瓜二つだという現実に背筋が震えた。




