49-1 駿府 今川館 北殿
勝千代はじっと興津の顔を見上げた。
興津はどこか頑なな、こわばって見える表情で視線を返してくる。
一連の状況と思うところを告げるべく、勝千代は御屋形様に面会を求めた。複雑な状況のすべてを書面で書き記し、更に直接その考えを聞きたいと嘆願したのだ。
だがしかし、書簡は受け取ってもらえたものの、面会は拒否されてしまった。
「……どうあっても?」
「はい、今は御気分が優れないとのことです」
興津の返答がやけに早い。
勝千代はなおもじっとその顔を見詰めた。正面に座る男の表情を注意深く伺うが、やはり過度の緊張しか伝わってこない。
「書簡はお読みいただけましたか?」
「はい」
「御意向だけでもお伺いすることはできませんか?」
「某の口からはなんとも……」
勝千代は「そうですか」と冷静に返した。
この状況下で、傍観し続けるということそのものに何らかの意思を感じる。
例えば伊豆への侵攻を是とするのであれば、残りの問題を勝千代に抑えよという事だろうか。あるいは許可なく同盟国に攻め入ったと、先走った駿河衆を排除せよということだろうか。
勝千代は無言のまま、真正面に座る興津の顔を見つめ続けた。その顎の骨がぐっと食いしばられるのを見て取って、ここで問答しても無駄なのだと察する。
御屋形様は答えを言う気はない。
露骨に示されたその姿勢に、込み上げてきたのは怒りだ。
今川家の当主は御屋形様だ。すべての事に責任を持つべき御方のはずだ。いくら病に臥せっているからといって、あまりにも無責任ではないか?
勝千代がぎゅっと眉を寄せると、あからさまに興津は怯んだ。
この男は何かを知っている。だが口外は禁じられているのだろう。
手が届きそうなところに答えがあるのに、それを知ることができない。怒りに苛立ちが混じる。
「それでは興津殿にお伺いします」
「そ、某にですか?」
「伊豆へ攻め込むことを事前に御存知でしたか」
興津は頭の回る男だ。だがそれ以上に、正直な男でもある。
その喉ぼとけがごくりと上下するのを見て、勝千代はそれとなく状況を悟った。
「いや、お答えは結構です。よくわかりました」
ここで興津が是と答えても、否と答えても、それが真実だとは限らない。
だとすれば、彼に嘘をつかせたくはない。
勝千代が素早くそう言うと、興津は露骨にほっとした表情をした。
「港に堺からの荷が届きました」
答えられないのなら、正直に言えるところだけでも言ってくれ。
勝千代は話を逸らすふりをして、更に注意深く興津の表情を伺っていた。
「積み荷のほとんどが米ですが、取り急ぎ荷揚げしたものを避難民への援助へ回したいと思うております。伊豆へも送るべきでしょうか」
さあ、この問いへはどう答える?
勝千代は、興津の表情が逡巡に揺れるのを見守った。
何を聞き出したいかはわかっているだろう?
「いかがでしたか?」
本殿に戻る途中の回廊に、またも井伊殿が待ち構えていた。
直垂ではなく小具足姿、いつでも出陣できる物々しい装いである。
勝千代はそんな井伊殿に険しい視線を向けて、今ここでは話せないと無言で首を振った。
それだけで、井伊殿には伝わっただろう。ちらりと北殿を見る目が厳しいものになる。
勝千代はそんな井伊殿と並んで廊下を進みながら、矢継ぎ早に言葉を続けた。
「岡部五郎衛門殿に長久保に入ってもらいましょう。現地からの徴兵はせず、取り急ぎ朝比奈殿のところから千送ります。朝比奈殿には引き続き富士川より西側を押さえてもらいます。井伊殿には駿府周辺を」
「遠江から兵を送らせましょう」
「そうですね。三千ほど興国寺城あたりまで呼びましょうか。念のため北遠にいる兵を掛川まで下げておいてください」
「三河への抑えですな」
「信濃から攻め入ってくるとしても、掛川に兵があれば備えになるでしょう」
「わかりました」
井伊殿が一礼して、すばやく回廊から庭の方に降りて行った。ささっと草履を持った側付きが後を追う。
勝千代は速度を緩めることなく本殿まで進み、大広間で作業を進めていた文官たちの間を縫って目的の男を探した。
「奥平殿」
「……っ、はい」
同僚と真剣な表情で書類を見ていた奥平が、名を呼ばれて弾かれたように顔を上げた。
京にいた時よりは顔色が良いが、寝不足気味の表情をしている。いや寝不足なのはここにいる文官全員に言える事だ。
「頼みたいことがあります」
若干くたびれていたその表情が、引き締まった。
文官たちの、揃ってこちらを見る目が、皆何かを悟ったように険しくなる。
「……何なりと」
奥平だけではない。この場にいる文官たちの決意を込めた視線に、勝千代は大きく息を吸い込んだ。
「北条とはおそらく手切れになります」
ひしめき合った文官たちからどよめきのような、ため息のようなものがこぼれた。
「扇谷上杉家に親書を送りたい。あくまでも親書であり、共同戦線を張るような言質をとらせるつもりはありません。草案をお願いします」
大広間で、誰もが聞こえる音量の声で発せられたその言葉は、一瞬にしてそのざわめきを沈黙に替えた。
「御屋形様からの指示はありません。そのことも鑑み、あくまでも当たり障りなく……」
「北条方に懐疑心を抱かせるものであればよいわけですね。畏まりました。お任せください」
奥平が端正な所作で勝千代の方に向き直り、丁寧に両手を前について頭を下げた。
その両隣にいる文官たちも続いて居住まいを正し、仁王立ちになっている小柄な勝千代に向かって文官たちが順次波のように叩頭していく。
反対あるいは抗議の声を上げる者は、すでにこの場にはいなかった。




