48-7 駿府 今川館 本殿2
可能性の話をいくらしても仕方がない。駿河衆がどこまで伊豆を切り取るつもりなのか、御屋形様がどこまで静観するつもりなのかというのも大きな問題だ。
御屋形様が動かないということは、周囲から見れば無言の許可を出しているのと同じだ。このままいけば、北条との全面対決ということになってしまうだろう。
百歩譲って、同盟を破棄し伊豆を切り取る方針に舵を切るのだとしても、御屋形様の口からその意思が聞こえてこないのがどうにも不安だ。
その事を危惧しているのは勝千代だけではないだろう。
難しい顔をした井伊殿が、ちらりと北殿の方向を見る。
「……桃源院様に切りつけた時も急に何事かと感じ申した」
要するに御屋形様のお考えがさっぱりわからない、という事だろう。同感だ。
朝比奈殿は厳しい表情のまま無言を保ち、なおも地図に視線を据えている。
見ているのは街道図ではなく伊豆の地図だ。やはり最前線がどうなっているのか気になるのだろう。
「……勝千代殿がどう動くか見ておられるのやもしれませぬ」
しばらく沈黙が続いた後、朝比奈殿の口からこぼれたのは、周囲を憚るような低い囁きだった。
いやそれは……と言いかけて黙る。
桃源院様に切りつけるということは、北条との決別を示唆していると取ってもいいだろう。だとすれば、今回の伊豆侵攻も御屋形様の何らかの思惑、もしかすると勝千代が知らないだけで何らかの指示があったのかもしれない。
いや、駿東へ甲斐から兵が下りて来ていたのは事実だ。それをいなしつつ、北条と事を構えるのなら、少なくとも遠江の兵に後詰をさせるぐらいはするはずだ。
御屋形様は遠江の兵を根こそぎ京へ行かせても何も言わず、戻って来てすぐ信濃国境を固めた事へもノーリアクションだった。
唯一したのは桃源院様の排除。
これからの今川家には不要ということだろうが、それにしてはあまりにも足元が危うい。
例えば桃源院様がいなくなったとして、御嫡男上総介様おひとりで今川家を担うにはあまりにも国情が不安定だ。
「なるほど」
しばらく何やら考えていた井伊殿が、至極納得したように頷いた。
「試金石ですか」
その言葉に、すうっと血の気が引いた。
「待ってください」
とんでもないことだ。何を試すのだ。
勝千代が今川家を私しないという姿勢を見たいのか? それとも……
井伊殿の目がまっすぐに勝千代を見据えた。
「期待されておりますな。お応えせねばなりますまい」
「……それは」
「すぐにも京の軍勢がどこから戻ろうとしているのか調べさせましょう」
朝比奈殿までもどこか納得したように頷き、若干早口になって身を乗り出す。
「我ら遠江衆が断じて先には通しませぬぞ。なに、数的にはたいしたことは御座いませぬ」
やおら張り切る二人の大人に、勝千代は困惑の目を向けた。
困る。そういうのは非常に困る。
「いやだから、和睦を……」
「おそらくは甲斐を通って河東からだと思うのですが」と、朝比奈殿。
「そうですなぁ、信濃からは遠江への道は難所故に、迅速に兵を動かすのは困難でしょうし」そう言いながら顎をさするのは井伊殿だ。
「たとえ伊豆攻略が失敗したとしても、相模の北条軍が駿河の国境を越えられぬよう後詰の兵をおくるべきでしょう」
「長久保とは良い所に目を付けられました」
二人の会話が、意図したものとは違う方向に向かっている。
勝千代はなんとかそれを止めようとしたのだが、ここは言葉を選ぶべきと躊躇しているうちに、どんどん話が進んでしまう。
「信濃はどうなっておりましょうか」
「信濃は信濃で揉めておりますから、今は遠江に色気を出している余裕はないかと」
「さようですな。福島殿もおられますし、こちらに攻め込ませることはないでしょう」
いや、二人の意見は間違ってはいない。考えていたよりもずっと物騒な発想だが、布陣的に必要な動きだと思う。
だがちょっと待て。
勝千代はパクパクと口を開閉し、恐ろしい会話のキャッチボールを何とか止めようと口を挟む隙を探した。
「例えばこの辺りに兵を置き、甲斐に圧を掛けるというのはどうでしょう」
「福島殿がおれば、このあたりの地形には詳しいのでしょうが……」
「聞くところによると、渋沢殿がその地域に一言あるとのことですが」
「そういえば、黒武者としてかなり攻め込んだと聞いております」
いや待って。本当に待って。
勝千代は助けを求めて己の側付きたちに視線を向けた。
そして、爛々と輝く逢坂老の目の色に衝撃を受けた。
いや逢坂だけではない。皆がやる気だ。何をやる気なのかは考えたくないが、とにかくやる気だ。
これはいけない。勝千代は強くそう思った。
制御できない流れに身を任せるべきではない。たとえば何かを成すにせよ、それは自身の決断によるものであるべきだ。
勝千代は己が慎重に過ぎ、この時代にはいささかそぐわない思考の持ち主だという自覚がある。敵ですらできるだけ傷つけないようになど、甘い事を考える者はいないだろう。
それではいけないとわかっている。
いざという時の逡巡は、味方に大きな損害を及ぼす恐れが高い。
そんな人間が、彼らが望むような立場に立っていいものか。
だが瞬間頭に過ったのは、上総介様の逸らされた視線だ。
ああ、今のあの方にこの状況を任せるのも酷か……
「……わかりました」
勝千代は腹をくくった。
逃げ出したくなる思いをぐっと飲みこみ、顔を上げる。
盛んに行きかっていた会話がぴたりとやみ、二人の視線が上座にいる勝千代の方に向く。
「どうにも思うようにはいきませんね。ですがやむをえません」
側付きを含め、大人たちの強い視線を浴びて息を吸う。無意識のうちに背筋が伸び、同時に腹に力が入った。
「御屋形様に献策をします。何事も許可なく動くつもりはありません」
あくまでも勝千代は庶子、そういう序列を飛び越えるのは不服のもとだ。
だが譲るつもりはない。勝手をした者たちの言い分を諾々と聞くつもりもない。
「左馬之助殿の兵が戻る二十日後までに、すべてを終わらせます」
数呼吸分の沈黙の後、口を開いたのは井伊殿だ。
「それは……二十日で伊豆を取るという事ですか、それとも」
「同盟を破棄するか否かですべてが決まります」
淡々と続ける勝千代の言葉に、朝比奈殿と井伊殿がすっと居住まいを正した。
「あるいは、御屋形様の御意向にもよります」
考えられるパターンは四つほど。
ひとつ。同盟続行。この場合は伊豆に侵攻した駿河衆を引かせる、あるいは切り捨てることになる。お互いさまと、それぞれの罪咎を問わない事が条件だ。
ふたつ。同盟破棄。相模あるいは左馬之助殿の兵が伊豆に入れないよう国境を塞ぐ。この場合伊豆攻略は落ち着いてから順次ということになるだろう。
みっつ。同じく同盟破棄。兵は現状落とした城までの防衛ラインを引き、北条と戦う事になる。これはあまりうまい手だとは言えない。
四つ目は、一番あり得そうで、一番避けたい事態だ。
「北条が甲斐と同盟を組んで駿河に攻め入ってくるのは防ぎたい」
はっと誰かが息を飲んだ。
勝千代は今のところ考えうるパターンを上げていき、難しい顔をする大人たちに真正面から現実を突きつけた。
「仮にそういう事態になった場合、駿東が奪われる覚悟をしておかねばなりません」
水害で広範囲に被害が広がっている現状、動員できる兵力も大幅に減っているし、防ぎきれず国境を越えられると、一気に富士川の際まで攻め込まれかねない。




