48-6 駿府 今川館 本殿1
いい知らせと悪い知らせは大概時を同じくして届く気がする。
幸松ら福島家の者たちが無事遠江に到着したという知らせは、信濃で大きな戦が勃発したという一報とほぼ同時にもたらされた。
幸松らについてはそれほど心配していなかった。井伊家の護衛があるし、駿河衆のほとんどが出払い、掛川までのルートはこちらが押さえていたからだ。
問題は父と源九郎叔父ら福島家の動向だった。
表だって父は負傷して療養中という事になっている。だが信濃での戦と聞いて父の顔が浮かんだ。同時に、砦で策を弄している二木の顔も。
詳細はわからないが、無関係だとは思えない。
「今できる事はありませぬ」
そう断言するのは井伊殿だ。
勝千代は言い返そうとして、開きかけた唇を引き結んだ。その通りだと思ったからだ。
信濃は遠く、今勝千代の手元にいる忍びの数は少ない。
段蔵や弥太郎がいるから、深刻な事態になれば何らかの知らせが来ると思う。実戦に関して言えば勝千代に出来る事はほとんどない。可能なら戦況を聞き、不足な物資などを送り届けたいところだが……
「むしろ手を出されぬ方がよろしいかと」
井伊殿に念押しするように忠告され、小さく息を吐いて頷いた。
表立っては信濃の内輪揉めとは無関係なのだ。
父は無名の客将として参加するのだろう。どのあたりの落としどころに到達するのか、いやそもそも、どことどこがどういう風に揉めているのかも伝わってこない。
二木に文でも出すべきか。あるいは手持ちの忍びに調べさせるべきだろうか。
……いや、今は別のところに気を取られている余裕はない。
こちらはこちらで、伊豆方面で火の手が上がり、やきもきすれども御屋形様が動かないので何もできずにいる。
駿河衆は当初国境付近の砦と、狩野川より北の小さな城をいくつか攻め落としただけだと聞いたが、どうやらさらに南に陣を進めているのだそうだ。
目指すは韮山か? もとは北条殿の御父上が主城にしていたという要所だ。いくらなんでもそこを攻められると、北条とは同盟撤廃、全面的な敵対関係になるだろう。
「北条の動きはどうですか?」
「いったん相模に兵を引いたようです」
そう答えたのは朝比奈殿だ。
勝千代はぎゅっと目を閉じた。
調子よく攻略していたという武蔵方面から兵を引いたという事はつまり……
「こちらへ来ますか」
「来るでしょうな」
井伊殿の声が弾んでいる。嬉しいのか。このあちこちで火の手が上がっている状況が?
色々言いたいことはあるが、何を言っても弱音になりそうな気がして、勝千代はもはや己の幸せは出尽くしてしまったのではないかと思うほど盛大に溜息をついた。
「総力では来ないでしょう。すぐに背中を向けては攻め込まれます」
「京の兵を戻そうとするでしょうな」
「問題はどの道をたどって戻るかという事です」
朝比奈殿と井伊殿が、並んで地図を覗き込んでああでもないこうでもないと意見を交わしている。
前にも思ったが、この二人はなかなかいいコンビなのだ。
正道を考える朝比奈殿と、搦手を得手とする井伊殿の思考回路は完全に違う経路をたどるので、意見を交わしあうとよい考えが湧くらしい。
「勝千代殿はどうお考えでしょうか」
ふたりはひとしきり頭をひねった末に、勝千代にも意見を求めてきた。
軍略に一言などないお子様にそんな事を聞かれても困る。
だが聞かれたからには何かを言わねばと、目の前に広げられた街道図をまじまじと見つめた。
左馬之助殿たちが京から伊豆まで戻るには、いくつかのルートが考えられる。
勝千代もたどった東海道であれば、どうあっても遠江駿河を横断することになるので、三河側から遠江に攻め込んでくるという事になるだろう。
中山道信濃から遠江入りをする可能性もある。そのルートを取られると、今の信濃の混乱を更に助長することになるはずだ。
甲斐を通るのであれば、もしかすると武田と同盟を組み、駿河に攻め込むという事もありうる。
そのどれになってもややこしいことこの上ない。
「一番良いのは、戻る前に和睦することですね」
「……和睦ですか?」
不服そうなのは井伊殿。朝比奈殿もいまいち腑に落ちない表情だ。
「戦をすることだけが戦いだとは思いません。今のこの、伊豆ががら空きの状況を利用するのであれば、むしろ一気に相模まで攻め込み小田原を取るのが早い」
真逆の事を言われて、驚いたような表情をする大人たちに、勝千代はそううまくはいかないと首を振る。
「どの道を通るにせよ、左馬之助殿が戻るまであと二十日というところでしょうか。こちらの兵を整え、相模まで奪うなど到底無理です。つまり、どの道をたどるのか調べさせた上で応戦する事になるでしょう。戦うのであれば」
「……戦うのであれば」
朝比奈殿は勝千代の言葉を繰り返し、再び街道図を見下ろした。
「あくまで予想ですが、三河側からは来ないと思います。今の遠江は最も兵が備えやすく、正面から戦になれば北条側の分が悪い」
「信濃か、甲斐か」
「そのどちらも、今は困ります」
顎をさすりながら熟考していた井伊殿が、トントンと膝を叩きながら首をひねった。
「信濃を引っ掻き回して、更に甲斐から河東へということもあり得ますな」
どこから戻ってくるにせよ、備えなければならない。
忍びに左馬之助殿の兵の動きを見張らせ……いやあそこには風魔がついている。
遠くから見張るにも苦労しそうだから、同じ風魔衆には難しいかもしれない。
ということは、忍びではない情報収集が必要か。
大軍の移動が誤魔化しきれるものではないので、その動きを見張るだけならむしろ素人のほうがいいだろう。
佐吉ら商人に頼むか。そろそろ米を積んだ船が到着する頃だし。
ほっそりと小柄な日向屋総番頭の顔を思い出し、ついでに八郎殿の結納についても頼まねばと「やる事リスト」に心の中で書き付けた。




