48-5 駿府 今川館 北対
父と同じ名前の少年の視線は、常に勝千代からは逸らされていた。
思うところはあるに違いないが、強烈な悪意のようなものは感じない。
ただ、相容れない立場、感情、そういう態度を取らざるを得ない現状が、二人の間には深い溝となって横たわっている。
それは、深い深い亀裂だった。
誰が何を言おうとも、どうにもならない拗れ。周囲はもちろん、本人にもわかっている。いや本人こそが一番よくわかっている。
逸らされ続ける視線を捕えるのを諦め、勝千代は深く頭を下げた。
当たり障りのない挨拶を終え部屋を出ようとすると、廊下に面したところに興津が控えていた。
上総介様の最初の傅役は去年病死した。後任はまだ選考中で決まっていないそうだ。
御台様が謹慎、祖母の桃源院様は幽閉。もちろん御嫡男の上総介様にはなんのお咎めもないのだが、頼みの駿河衆もおらず、常に側にいた女官たちも遠ざけられ、心細さを覚えているのははた目にもあきらかだ。
興津はきっと、この機会に兄弟の仲を取り持とうとしたのだと思う。
だが人間の心情は簡単なものではない。世の中にはどうにもならないものがあるのだ。
異母弟がふたり、自身の立場を奪おうとしていると怯えているのだろう。
そんな事はしない。
勝千代は本心からそう思っているが、言っても信じてもらえないのはわかっている。
「傅役は駿河衆から選ぶべきだと思います。ですが現状は難しいです。伊豆の件が片付くまでは、様子を見たほうがいいでしょう」
「はい」
上総介さまの傅役にいずれ敵対する、あるいは今川家とは縁切りになるかもしれない者を選ぶわけにはいかない。
もう少し状況を見定めてからというのは、勝千代だけの意見ではないだろう。
「御屋形様はまだ何も?」
「はい、状況は逐一報告しておりますが、別段の御指示はありませぬ」
勝千代は振り返って問いただしたい気持ちをこらえながら、「そうですか」と短く言った。
ことここに至っても御屋形様の動きがないのは、体調云々よりも、勝手な動きを見せた駿河衆をどうするべきか考えておられるのだと思う。
きっと勝千代ほどには、同盟国に攻め入る事への呵責などないだろう。
おそらく御自身の支配が緩んでいる事への牽制、あるいは制裁の方向で動かれるのではないかと予想している。
更にしばらく、北対から表に向かって歩く。
勝千代の少し前を興津が歩き、その様を渋沢配下の兵たちがじっと無言で見守っている。
更にその様子を、奥の女中や雑者たちが遠巻きに眺め、きっと面白おかしく噂を広げるのだろう。
ちなみに堀越の姫と八郎殿との縁組については、「よきにはからえ」とのお墨付きをもらっている。
これまでそのあたりの事を担当していたのは桃源院様で、家臣の婚姻について御屋形様が口を挟んだことは過去一度もないらしく、特に興味もなさそうだったと興津は言う。
八郎殿は御屋形様にいくばくかの恩義を感じているようだが、御屋形様のほうはさしたる思い入れもなさそうだ。
このぶんだと、御台様と同世代の妙姫が、嫁ぎ先も見つけてもらえないままずっと北対に留め置かれていたことについても何も思うところはないのかもしれない。
そういう他所への興味の薄さは、何年も続く回復のあてのない病故だろうか。育ってきた環境によるものだろうか。
勝千代はよく御屋形様に容姿が似ていると言われるが、上総介様の無言で他者を退けようとする素振りは、意外と親子で似た気質なのではないかと思う。
本殿への渡り廊下の手前で、興津が立ち止まった。
勝千代はそのまま足を進め、少し行ったところで振り返った。
「何かありましたらすぐにお知らせください」
「はい」
興津はその場で丁寧に一礼した。
今川館の警備をしているのは渋沢だが、御屋形様や上総介様の側付きの役目は興津が務めているのだ。
顔を上げた興津の目が、勝千代の肩越しを見た。
気になるのはわかる。勝千代も気になる。
何か用事があるのだろう、井伊殿がわざわざ北対の境目のところまで迎えに来ていた。
「おお興津殿」
なんだか最近、その声の大きさで話の深刻具合が計れるようになってきた。
よくない話でもお得意の策謀系でもなさそうだと思いながら振り返ると、井伊殿は手に持っていた複数の書簡を両手で興津に差し出した。
「堀越家から結納についてのお伺いがきておりますよ」
一応今川八郎として嫁取りをするので、そういう取り決めは今川本家とするべきかという問い合わせだろう。
この時代は、本人同士が合意しているからといって、勝手に夫婦になれるというものではなく、どんなに身分が低かろうとも婚姻は家同士の結びつきだという考えが強いのだ。
「その事でしたら、御屋形様は一門衆としてふさわしき支度をとお考えのようです」
興津はその丸い顔にようやく笑みらしきものを浮かべた。
気を張って真顔なのも見慣れてきたが、この男はやはり人の良さげな笑みを浮かべている方が似合っている。
最初のうちは「ご本人の床上げを待った方がいい」と勝千代は言ったのだ。にもかかわらず、現代人の感覚でもあり得ないスピード婚が整いつつあった。
なんとなくだが、外堀を埋める気配? 話が早く進み過ぎている感じがする。
妙姫は決まったのなら一日でも早くと言いたげに、さっさと今川館を引き払って堀越の屋敷に身を移した。
そして連日八郎殿のもとへ通い、かいがいしくその身の回りの世話をしているのだそうだ。
世話と言っても実際に看病をするとかではなく、話し相手をする程度だと思うだろう?
なんと実際に包帯を交換したり衣服を着替えさせたりしているらしい。
……なんというか、ぐいぐい行く人だよな。
周囲が総じてそれを好意的に受け止めているのがちょっと怖い。




