48-2 賤機山城 二の丸1
四年もこの時代にいて、大概の事には感覚が慣れてきたつもりでいた。
清潔とは程遠い衛生環境も、血しぶきが飛び散る凄惨な現実も。
現代人が真っ先に恐れるであろうそれらを乗り越えてしまえば、馴染んだも同然と思うだろう?
だがそれよりももっと根強く、払拭できないものがあるのだ。
それは、三つ子の魂ともいうべき義務教育の成果だ。
物事の善悪のように、多面性を持った回答がある問題ではなく、例えば科学知識のように、絶対的な正解として学んだ常識は、「思い込み」あるいは「すり込み」のように考えを固執させてしまう。
正しい答えを知っているというのは、結構な事だと思わないでもない。
人類が長い年月を掛けて積み上げてきた事実を、答えを先にズルして知っているようなものだからだ。
だが月までの距離を知っていたとして、何の役に立つ?
水が沸騰する温度を知っていたとして、何の意味がある?
そういう普遍的な事実についてはまだいい。
今一番頭を悩ませているのは、地理的な問題だった。
いやそんなもの、と思うだろう?
だが勝千代が知っている令和の時代の地形と、今とでは大きく違う。
たとえるなら川の流れる位置、海岸線の形。それはまあ、時代が変われば違ってくるのだという納得もできる。
毎回「つい」の思い込みをしてしまうのは、国境ラインだ。
勝千代が知っているのは、日本という一つにまとまった国であり、県境がどこかなどはそれこそ常識の範疇にある知識だ。
しかもその国境が時代ごとにより変わっていくものだという認識がないのだ。
そう、「ない」のだ。
駿河は駿河、伊豆は伊豆、相模は相模。これはあくまでも古い国名であり、国境ではない。
国境の、感覚的にいうとA国ともB国とも言えないまだらな属性など、頭の中には存在しない。
子供の頃に部屋の壁に貼っていた、都道府県ごとにくっきり線を描かれた地図が根底にある。もちろん現実の土地はパズルのような区切りがあるわけではなく、そもそも境目になるような川の位置からして変わっているのだから、遠い未来の子供地図などたいして役に立つものではない。
何が言いたいかというと、とある特定の区域は「駿河」の国と呼ばれる範囲内であろうとも、完全に「今川家」の勢力下とは言えない、という事だ。
勝千代の中の思い込み、そうあるべきという固執は、利点よりもむしろ罠に近い。現地の人々の感覚と、大きく乖離しているからだ。
駿東の当該地区が、まさにそういう土地柄だった。
「お加減はいかがですか」
勝千代はそう問いかけてから、自身がもっとも尋ねられたくない言葉だということを思い出して誤魔化し笑いした。
「重篤な後遺症が残らないようでよかった。医者はあとは日にち薬だと言うているようですね」
さすがは左馬之助殿の弟というべきか、葛山八郎殿は勝千代とは雲泥の差で頑丈な男のようだった。
ただし左馬之助殿と比べると若干線が細く、神経質そうな雰囲気をしている。あの男ほど呑気者というのも、それはそれで問題なので、現状に危機感を抱いているのは正解だ。
ここで彼が知りえた情報を事細かに聞き出している時間はない。
いずれは知らねばならないと思うが、おそらく八郎殿がこのような目に遭った本質的な原因は、その「知りえた事」ではない。
本人もそれがわかっているのだろう、あて布の下から垣間見える表情は振るわない。
軽く首を振ろうとして、痛みが走ったのだろう、くぐもった声で胸元をさすった。
単色の小袖の寝間着からのぞく火傷や打擲の痕が痛々しい。
「人払いをしています。何を聞こうと、ここから持ち出すことはありません。思うことがあるなら先にお伺いします」
「……先に、ですか」
さして長い会話をしたわけでもないのに、即座に気づくあたり頭のいい男なのだろう。
勝千代は隠すまでもなく、肩をすくめた。
「葛山殿らが伊豆に兵を進めました」
「……そうですか」
「驚かれませんね」
「いずれはと思うておりました」
「それは、どちらの御立場としての言葉でしょう」
駿河衆葛山家養子としての言葉か。北条家当主の弟としてか。
どういう返答でも、返す言葉に困る。勝千代はさっと片手を振った。
「答えづらい問いをしてしまいましたね」
この男が葛山家に養子に入ったのは、おそらくまだ北条家が今川の被官あるいは一門衆扱いだった時期だ。
大きく状況が変わったのに、そのままの状況に捨て置かれていること自体に、北条家が八郎殿をどの程度重要視しているかがわかる。
高天神城の引きこもりも、かつては他家の跡継ぎとして養子に入った。八郎殿も似たような境遇なのだと思う。だが葛山家の嫡男として大切に扱われているのなら、そもそも文官として出仕する事はないはずなのだ。葛山家は河東の最前線を預かる家柄だ。つまりは文官寄りではなく武官寄り。意気盛んな新興国である北条殿の弟ということは、武将として育てられるべき血統の男子だ。
もちろん気質的な向き不向きはあるだろうが、みたところ、武家として刀を握るに不足がある感じはしない。
「……物心つく頃には、父の顔も思い出せぬ有様でした」
やがて八郎どのは胸元を擦るのをやめ、長く苦々し気な息を吐いた。
「病死したと聞いてもそうかとしか感じず、物心ついて以来会う機会もなかった兄弟についても特に思う事はありませぬ」
北条の先代が病没してから、まだ十年ほどだと思う。つまり八郎殿は元服するかしないかの少年期に実父を亡くしたのだ。にもかかわらず、顔も覚えていないという。
「冷たい男だとお思いでしょう?」
それは彼が冷淡な男だというよりも、ここまで若い少年を無碍にしてきた北条家に問題があるのではないか。
「時折想像はしたことがあります」
八郎殿はまじまじと勝千代を見て、どこか遠い、別の何かを見ている風な表情をした。
「いつか我が子よ、弟よと迎えが来るのではないかと」
それは、養護施設にいる子供からよく聞く類の話だ。
立派に親がいて、兄弟がいて、仮にも養子として迎えた家もあったのに、誰一人として彼を「家族」とは扱わなかったのだろうか。
「ですが今はその幻想よりも、御屋形様への御恩のほうが強い」
勝千代はふと、八郎殿の目が見ている者が己ではなく、よく似た面影を追っている事に気づいた。
御屋形様は、八郎殿にとっては従兄弟にあたる。
おそらく、身近にいる最も親しい親族だったのだ。
「某に何を望まれますか」
穏やかな口調だった。
これまでずっとその存在をお荷物とみなされ、無視されてきた男の、隠しきれない熱望のようなものがあった。
利用されることに忌避感はないのだろうか。
いや、それこそが彼の望みなのかもしれない。




