47-9 駿府 今川館 北対離れ3
渋沢が提出してきた書き付けを囲み、勝千代とその側付きたちは難しい顔で唸った。
広げた紙に書かれているのは二十ほどの名前。全員女性で、上は二十代半ばから、下は裳着もまだの幼女である。
「……これは」
土井は何かを言いかけて、勝千代の顔を見て更に困惑の色を深めた。
「御嫡男のお手付き待ちでしょうな」
井伊殿の忌憚ない言葉に、全員で深い溜息をつく。
上総介殿は勝千代より二つ三つ年上なだけの少年である。つまりはまだ十歳そこそこだ。いくらこの時代の婚期が早いからと言って、その年頃から二十名ものお相手が控えているというのは……
「御屋形様がご健在であれば、このような事にはなっておらぬでしょう」
逢坂老はそう言うが、もともと御屋形様のもとには大勢の側妾が侍っていたのだろう。桃源院様は同じことを上総介殿にもしようとしていた。
出る杭に過剰な警戒をして叩きまくる割には、杭自体が出てくることは待望している。矛盾が過ぎる話だ。
「武家にとって跡継ぎ問題は重要ですからな」
井伊殿はちらちらと勝千代を見ながら言った。
「若いうちにと準備をするのもわからなくは……」
嫁は一人でいい。そう言ってやりたかったが、今の時代にそぐわないとわかっているのであえて口にはしなかった。
そもそもそんな事を話題に上らせる歳でもない。
「……奥での経費が掛かりすぎています。全員を実家に戻すというのは?」
「人質としていらしているのなら、感謝されこそすれ苦情など出ないでしょうが、将来の御台所あるいは御側室の座を狙っておいでなら、余計な事をと恨まれましょうな」
井伊殿の意見に、勝千代は目頭を強く揉む。
人質なら嫡男というのが定番だろう。何故江戸城の大奥のような事をしようと思った。
しかも井伊殿は御台所というが、今川家当主の正室であれば、人質系ではなくもっとやんごとない所から選ぶはずだ。公家あるいは他国の姫君とか。
勝千代の母のように側室となり、勝千代のような庶子を量産し、その子を親元に戻す。正しく運用すれば優れた血の統率システムに……なるのか?
ややこしい案件が増えるだけとは思わなかったのだろうか。
「問題のない御方からご実家に戻って頂きましょう。若君に許嫁なりお見合い相手なり必要なのでしたら、その時々ということで。いくら何でも一回り以上年上というのはありえないでしょうし」
「いや、最初のうちは経験豊富な……」
「井伊殿」
余計な事を言おうとした井伊殿を遮ってくれたのは逢坂老だ。
年増がいいという井伊殿の好みは横に置いておいてもらおう。それよりもっと、話を詰めておかなければならないことがある。
「……朝比奈殿はなぜ教えてくださらなかったのでしょう」
書き付けに並んだ二十人の名前。人質の姫君たちの上位に、朝比奈の名がある。
「姉君夫婦が朝比奈屋敷にいらっしゃるのは聞いていましたが、その一姫が」
勝千代はふうと息を吐いて、クモの糸のように張り巡らされた桃源院様の腕に改めて背筋を震わせた。
朝比奈殿は四年前のあの件があって以降、嫁取りは嫌がっているのだそうだ。朝比奈家の跡取りについては、勝千代ら他家の者が口出しする事でもないのでよくわからないが、生涯独身を貫くつもりなら、今川館に人質にでている一姫の子を養子に取るということもあるのかもしれない。
それはつまり、福島家と同じ。朝比奈にも今川直系の血が入るという事だ。
「……どえらい事をお考えになるものだ」
井伊殿は感心しきりに顎を擦っているが、逢坂老は苦虫をかみつぶしたような、そのほかの若手たちもゾゾっと悪寒を堪えるような表情をしている。
きっと皆の頭の中にあるのは、「種馬」という二文字だろう。
その視線が一斉にこちらを向いたので、慌ててぶんぶんと首を左右に振っておいた。
嫌だからな。絶対に嫌だからな!
「……御嫡男にはまだ早いお話ですな。元服を迎えてからで十分でしょう」
井伊殿の妙に楽しそうな視線が、勝千代を上から下へと眺める。
「勝千代殿も早いうちに、許嫁のひとりでもお決めになられておいた方がよいやもしれませんな」
……無遠慮すぎるぞ不良中年。
「血は力じゃ」
悪びれもせずそう言ってのけたのは、昨日よりは顔色の良い桃源院様だ。
どういう意味だと顔を顰めた勝千代に、桃源院さまは馬鹿にしたように笑う。
「家臣どもが勝手に手を結び、勝手に縁戚になり、勝手に力をつける。そうなる前に、跡継ぎには今川の血を入れるのじゃ」
馬鹿じゃなかろうか。
仮にそれが可能だったとしても、すべてがうまくいくはずもなく、強引な事をすれば禍根が残る。余計な野心を持つ者も出てくるだろう。
「血のつながりがすべてを解決するわけではありません」
その最たるものが勝千代自身だ。
邪魔だと感じただろう? いらぬと思っただろう?
言外にそう問うと、もの凄く嫌そうな顔をされた。
嫌な顔をされるついでだ。昨日の続きを始めよう。
例の冊子を膝の上で広げると、桃源院様は臥所の上でそっぽを向いた。
尼そぎの髪がパサリと揺れて、頬に掛かる。
そんなふてくされた顔をしてみせても駄目だ。
今川家当主を種馬扱いする女相手に、可哀そうだとも手控えようとも思わない。
やつれ血色の悪い顔は幽鬼のようだし、これまでの所業と合わされば立派な業つくババアだ。
「姫君たちはご実家に戻すことにしました」
そっぽを向かれても構わず、言いたいことだけを言う。
「皆が皆、今川の血を欲しているわけではありません。ほとんどが喜んで戻られるそうですよ」
おそらくその中には、桃源院様がここぞとばかりにゴリ押しで呼びつけた姫君もいたのだろう。
すごい形相で睨まれたが、平然と冊子を繰り顔も上げない。
「……御屋形様は、あなた様がなされてきたことを否定なさいました。もちろんこれもその一環です」
いやがらせ? 違うとも。
これはれっきとした親切だ。……そうだろう?




