47-6 駿府 今川館 本殿
その後の数日は、それはもう忙しかった。
頭が思考を放棄するぐらいにドンドン仕事が来る。
多くは是か非かの判断だが、中には「婿養子が嫁実家に黙って私腹を肥やしていた」という、どこかで聞いたような相談まで持ち込まれて、これ以上は無理! となるギリギリのところで事態が動いた。
「……申し訳ございませんっ」
そう言って頭を下げるのは、ここ数日で顔と名を覚えた駿河衆の中堅文官たちだ。
必死の形相で謝罪の言葉を繰り返すが、彼らが何かをしたわけではない。
いや厳密に言えば、「見ないふり」をしてきた過去がある。だがそれは、今川館にいるすべての文官に当てはまる事だ。
勝千代は、手元にあるぶ厚いつづりの冊子を捲りながら、深い溜息をついた。
「そのほうらがまとめたのか」
「はっ、はい。元の書類はこちらに」
中堅といっても勤務歴的なもので、身分はおそらくどこぞの家の次男三男、下級武士の出も多いだろう。
つまりは彼らにとっては、勝千代に付くか古い体制に付くかの決断をしたということだ。
「迷っただろう」
「……」
返ってきたのは無言だったが、なおそれが彼らの立場の不安定さを告げていた。
「その覚悟、確かに受け取った」
「……っ、は」
実際のところは、勝千代が富士川の氾濫で大量の援助物資を送り込んだのが大きいと思う。恩に着せようとしてしたことではないが、選択に迷った時の決め手にはなったのだろう。
勝千代はまだ墨跡も真新しいその冊子を捲りながら、確かにこれは一介の文官には手に余るだろうと納得した。
例えば誰かがこの問題を表沙汰にしようとしても、消されるのはその者のほうだろう。
はっきりそうわかるから、誰もが口を閉ざし見ないふりをしてきたのだ。
そして一つに目をつぶれば、そのほかの事にも同様の対処をせざるを得ない。
「この件はこちらで処理をする。そのほうらは何もなかった顔をしておれ」
例えばこの先、勝千代の立場が悪くなったとしても、この者たちが告発したことは誰にも言わない。
言外に告げたその言葉に、ひくりと喉を鳴らしたのは、一番年かさの文官だ。
文官たちは不ぞろいに次々と頭を下げた。
普通の感性の持ち主なら、「これ」を見過ごすのにはかなりの葛藤があっただろう。
泣いているのか、肩を震わせているその様に、長年のつらい抑圧を見た。
文官たちが去り、残されたのは勝千代とその側付きと護衛たちだけになる。
勝千代は静かに真新しい冊子を捲り、逢坂老は床に積まれた雑多な書類に目を通す。
この冊子に書かれている事が事実なら、もう十年以上にわたり横領はあったという事になる。それはつまり、御屋形様がまだ御健在だった時期からだ。
そんな事ができる者は限られており、「米」の行き先を見るだけでも予測は簡単だ。
「……どうなさいますか」
「身内を優遇したのか、後々軍事的な協力を得る為か」
「意味合い的には同じですな」
ここまで証拠が残っていれば、もはや言い逃れは出来ないだろう。
勝千代はパタリと冊子を閉じて、逢坂老に視線を向けた。
「渋沢を呼べ」
どうやら、片を付けるべき時が来たらしい。
桃源院様は、北対ではなくその離れの一角に幽閉されていた。
使用人は最小限で、その出入りにも厳重に目を光らせられている。
御屋形様の指示でなければ、長らく今川家で絶対的な権力を保持していた御方にそんな扱いはできなかっただろう。
渋沢によると、度々悲鳴のような怒声のような声が聞こえるそうだが、定時に使用人が世話に入り、必要だと見なされれば医者が呼ばれ、基本的には面会謝絶。渋沢もあれ以来お姿を見ていないという。
北対に向かうまでに、かなりの警備とすれ違った。
さすがに建物内には武骨な装備のものはいないが、庭には鼠一匹通れないほどの人数が常駐している。
この時代の建物の造りとして、廊下のほとんどが外側に面しているので、ずっと部屋の中を通るのでない限り、彼らの監視の目を逃れる事は出来ないだろう。
桃源院様が療養、幽閉されている建物は、その北対エリアからもかなり離れた位置にあった。どこともつながっていない独立した建物で、そこに行きつくまでにかなりの長距離庭を歩かなければならない。
もともとの用途はなんだろうと、ようやく見えてきた屋根を見上げながら首を傾げる。
柱も屋根も北対と同じ立派な造りだから、かつてはそれなりの御身分のかたがお住まいになっていたのかもしれない。
「ここまででよい」
勝千代はそう言って、土井の手から例の冊子を受け取った。
「お気を付けください。かなり気が立っておられます」
渋沢は最後まで同行を希望したが、相手は起き上がれもしない怪我人だ。身辺からは刃物が遠ざけられているそうだし、そこまで心配することはないだろう。
勝千代は、すごく心配した様子の大人たちを見上げ、「大丈夫」と頷いた。
声を上げたら数秒で駆けつける事が出来る距離に控えているのだろうし、天井裏には影供もいるから、万が一桃源院様が勝千代に害を及ぼそうとしても即座に対処可能だ。
それよりも問題なのは、勝千代自身の心構えだった。
長らく福島家に災禍をもたらし、実際は今川家からも大量の蜜を吸い取り、もしかすると勝千代の双子の兄を手に掛けたのかも知れない相手。
恨み憎しみを抱いていないと言えば嘘になる。
だが、そんな感情は理性を歪ませる。
今はただ、この冊子の内容を問いただすだけだ。




