47-5 駿府 今川館 勝手方長屋2
商人たちの縋るような視線を無視して広間を出たところで、真正面からやってきた男に満面の笑顔を向けられた。
「おお、勝千代殿。ずいぶんと御顔の色がようなられましたな」
それはこちらの台詞だ。
勝千代は今川館に来てからゴリゴリと生気が削られていく気分なのに、井伊殿は日ごとに満ち足り生き生きとしているように見える。
何がそんなに楽しいのだと、問いただしたい気持ちを堪えた。
問わずとも、この状況自体を大いに楽しんでいるのだとわかっていたからだ。
悪い男ではないと思う。いざというときにはこの上なく頼りにもなる。
だがそれは、井伊殿と勝千代との利害関係に齟齬がないからで、敵に回すと非常に厄介な相手なのだと身に染みている。
なれ合うよりも、多少の緊張感が必要な相手だ。
「少しお時間よろしいでしょうか」
……ほらな。
勝千代はそのふてぶてしい顔を胡乱に見上げ、「ええまあ」と慎重に答えた。
井伊殿は明るい表情で二、三度頷き、「ではこちらへ」と丁寧な仕草で回廊の端の部屋を指し示した。
なんとなく、仕組まれた罠にはまりに行くような気がした。
きっと気のせいだとは楽観的になれない。
案内されたのは先程の広間の半分ほどの大きさだったが、平伏している人数はその三倍ほどもいた。
どの男も商人だと一目でわかる身なりをしていて、中にはその着物が借りてきた一張羅のような者もいる。
「……説明を」
罠ではなかったが、どうやら先回りされたようだ。
別部屋に呼んだ商人たちとは物別れになるとわかっていたのだろう。
「駿河で商いをしている者たちですよ。是非とも勝千代殿のお役に立ちたいそうです」
変なところを強調しないで欲しい。今川家でいいじゃないか。
勝千代はちらりと井伊殿を見て、ため息を飲み込んだ。
「それは助かります」
「安倍川が溢れるかもしれぬと避難を呼びかけられたでしょう? 実際には何事もなく済みましたが、そこまで下々を気にかけてくださるとはと皆感激しておりますよ。人徳ですな」
勝千代は無言で口角を引き上げた。嫌な顔をしなかった事を褒めてほしい。
どうやらまたお得意の情報戦を仕掛けているようだ。しきりに勝千代を持ち上げ、平伏している商人たちに毒ではないが似たようなものの言葉を流し込んでいる。
「それにしても、勝千代殿が頭をさげておられるのに、他国に売る予定があるから米は出せぬと申したそうにございますね」
寸前の話し合いを聞いていたのか、そうなると予測していたのか。
間違ってはいないが、どうにも違和感がある言い回しだった。
「勝千代殿はきちんと対価を支払うと仰っておられるのに……」
明確な印象操作だな。大店の連中には手痛い逆風になるのではないか。
井伊殿がやろうとしている事はあながち意に沿わないものでもないので、そのまま放置しておくことにした。
「勝千代殿の御指示通りに、とりあえずはこの者たちが持っている品を富士川方面に運ぶことにいたしましょう」
着々と話が進んでいくのはありがたいのだが、すべての言葉の前に、勝千代の名前を付けるのはやめて欲しい。
「よろしいでしょうか」
全員が平伏して黙っている中、ひとりの商人が口を開いた。
井伊殿がどう言ってこいつらを集め、事前に何と言い聞かせていたのかわからないが、いい年をした男たちの頭のてっぺんだけを見ている趣味はない。
「おお、三坂屋か」
勝千代が口を開く前に、井伊殿が大きな声で言った。
この男の「大きな声」には、どうしても身構えてしまう。
「我らだけでは、必要と仰られる半数量もご用意できませぬ」
顔を下げたままそう言ったのは、やり手そうな若い男だ。若いと言っても、この商人たちの集団の中ではという意味で、三十代には達しているだろう。
そしてこの男は、勝千代にとっても全く見知らぬ者でもなかった。
三坂屋は堺衆日向屋の異母弟なのだ。屋号は違うが、店先の暖簾に描かれた紋が一族としてのつながりを示している。
何年か前に挨拶を受けたことはあるのだが、勝千代は主に遠江にいたし、遠江のほうには佐吉が率先して御用聞きにきていたので、ほとんど付き合いはない。
「幸いにして今は春先。着る物や炭についてはなくとも何とかなりますが……」
「米か」
勝千代は、目と鼻の先にある青田屋の蔵の中身を思い、顔を顰めた。
本当に売り先が決まっているものなのだとしても、今この時に飢えようとしている者たちの方が優先だとは思わないのだろうか。
「伝手はある。十日あればなんとかする」
頭にあるのはもちろん、日向屋をはじめとして、京で知己になった堺衆たちの顔だ。
荷馬で運べる量ではないので、船になるだろう。
大至急で動いたとしても、十日で足りるかは微妙だ。
人間は十日も食わずには生きていけない。もちろんすべての米が流された、あるいは略奪されたわけではないだろうが、生き延びた者たちの腹をどれだけ満たす量があるかは不明だ。それがきちんと行き渡るかについても、監視しておくべきだろう。
……いざとなったら、強制徴用だろうな。
後にどんなに悪評が立つのだとしても、せっかく災禍を生き延びた民を飢えで死なせるわけにはいかない。
勝千代は、ぱちぱちと扇子を開け閉めした。
頭の中にあるのは、青田屋らに対する言い訳ではなく、本当に商い先が北条であった場合の事だ。
他国の商人に声をかけるほど、手当たり次第に米を集めている理由は?
飢饉だとは聞かないから、兵糧だろうか。
対武蔵用の? あるいは他のどこか?
ふっと頭をかすめた疑惑を振り払う。
今川と北条は同盟国だ。攻め込んでくる可能性を考えるのは早計だろう。




