47-3 駿府 今川館 大広間1
ああ、熱が出るな。
その予兆はわかったが、誰にも言わなかった。
弥太郎がいれば気づかれただろうが、今は不在だ。
それが良かったのかどうかはわからない。微熱で済めば誤魔化せたかもしれないが、お子様ボディな上に、もとよりの虚弱体質、いったん熱が出ればかなり上がる。
まず頬の赤さで気づかれて、慌てて医者を呼ばれた。
多少は腹の傷も関係あるだろうが、そちらは悪化していないので、日頃の疲れが出たのだろうと言われた。
それはそうだ。寝不足になるまで仕事をしていい年齢じゃない。
頭上に現れたり消えたりする顔を、ぼーっと見上げながら、適当に何か喋っていた気がするがよく覚えていない。
そんな状態でもなお、現状の事で頭を悩ませていた。熱に浮かされふわふわ定まらない感じなのに、考えている事と言えば氾濫する川の治水についてだ。
遠い未来になると、日本の川の多くは上流にダムが築かれたり護岸工事などの技術が発達したりで、よほどのことがない限り川が氾濫したりはしない。
勝千代の中に治水の知識はないが、この時代でもすべてが不可能だという訳ではないのではないか。
京では宇治川の迂路を作ったり、堰とまではいえないがため池のようなものを人工的につくったり、試行錯誤した形跡が見受けられた。
川の氾濫はおそらく日本の各地で長く頭を悩ませているものだ。そして、その治水との長い戦いの末が、勝千代が知る氾濫のない安全な川だ。
到達点を知っているからこそ、何の手立てもなく川が暴れるに任せている現状を何とかしたい。
問題は、何をするにせよ大規模な工事になり、人手も金もかかるという事。
今の勝千代に、それを指示する権限などない。
寝たり起きたりを繰り返し、数日。
熱に浮かされていたのはその日だけで、翌日には微熱程度にまで下がったのだが、まだ休むようにと言われた。
その間も、重要な何かがあれば知らせるようにと言っておいたが、体力を回復しようとひたすら眠る子供の邪魔をする者はいなかった。
実際に何も起こらなかったのか、大人たちが適度に処理していたのかはわからない。
熱が下がるまでに三日。床上げするまでに余分に丸一日。
寝不足も解決したし、熱もないし、わき腹も押さえなければ痛まない。
四日で回復というのはなかなかじゃないか?
数日ぶりに直垂を着せてもらい、ご満悦に頷き返すと、腰ひもを結んだ土井が泣き笑いのような安堵の表情をしているのに気づいた。
心配をかけたのだと察し、申し訳ない気持ちになるが、子供はえてして熱を出すものだぞ。
まあ、腹を刺されることなどは早々ないだろうが。
「あっ、若君!」
厠に行こうと歩いていると、無遠慮な声を掛けられた。
さっと警戒した谷らを制し、勝千代は笑顔を返す。
「雪殿。……と渋沢」
手水鉢が置いてある東屋で、寄り添っているわけではないが、以前の二人の関係性からは考えられない近さで並んで座っていた渋沢と雪。
「よかった! 本復されたのですね」
ニコニコと笑顔の雪は、この場の微妙な雰囲気などまったく気にならない様子で、勝千代の回復を喜んでくれている。
勝千代は渋沢を見て、雪を見て、もう一度渋沢を見た。
……ふうん。
「勝千代様」
久々に見た気がする渋沢は、ひどく憔悴し、何故か男前度をかなり増していた。
そんな顔で膝をつかれ、見上げられても、やつれた事を心配する前に、つやつやしている雪殿の方が気になる。
それが男女のアレな事情かと邪推するのは、野暮で大人げないのだろう。……大人じゃないけど。
「……御無事で」
おお、ハスキーな声が色っぽいですね。
感に堪えない様子の渋沢をどうしても揶揄いたくなってきたが、老女を刺殺した瞬間を思い出してギリギリ堪える。
「そのほうは随分な顔色だな。休んでいるのか?」
「はい……はい」
そう言えばこの数日、この男は見舞いにも現れなかった。
それが、顔を出す資格もないというような、自責の念に苛まれての事だとようやく察する。
「変わったことはないか」
こういう場合は、下手に慰めるのではなく、信頼しているところを見せればいいのだ。
そう思い問いかけると、渋沢の影を増した眼差しにようやく光がともった。
「……はい。大きな異変はなにも」
「鼠がいるならそろそろ動き出している頃だ。注意だけはしておけ」
「お任せください」
決意を込めた様子で頷く男前。
その前に仮眠でも取って体調を戻した方がいいと言ってやりたかったが、雪殿のキラキラとした視線を浴びてやめた。
面白そうなことになっているな。
このところシリアスで陰鬱な事ばかりが続いているから、そういった邪推を楽しむのもアリだろう。
生真面目渋沢の事だから、十中八九、邪推はただの邪推にすぎないのだろうが。
勝千代が大広間に顔を出すと、そこに広がっているのは異様な雰囲気だった。
死屍累々、土気色の顔をした文官たちが、ふらふらしながら仕事をしている。勝千代が休養している間、かなりハードワークだったようだ。
よきかな。これまで楽してきた分しっかり働け。
もちろん口に出しては言わない。その手の事は、ブーメランになって戻ってくるものだからだ。
幾人かのやつれた顔に、ほっとしたような感情を見つける。
これで楽になるとか思うなよ? まだまだ難局は乗り越えられていないのだから。
そう思いつつも、パフォーマンスを考えて交代での仮眠を許すあたり、勝千代もまだまだ甘いのだろう。
この数日の間に、かなり状況は改善していた。
特にいい知らせなのは、朝比奈軍が無事甲斐を押し返したという事だ。
水も引いているし、略奪者もあらかた追い払った。
ただし、朝比奈軍はともかくとして、富士川周辺の被害は甚大なものだ。
ここから先が文官どもの仕事だ。ゾンビのような顔をしている場合じゃないぞ。
気になる河東の事については、とりあえず置いておく。
駿河衆の兵らがいまだ無傷で、もしかすると甲斐兵とは一度も接触していないのではないかという状況も知らぬふりをしてやる。
もっと深刻な、重大な事件が起こっていた。
……米不足だ。




