47-2 駿府 今川館 本殿寝所2
「……無傷?」
勝千代は介助して起こしてもらいながら、気もそぞろな様子の伝令に問いかけた。
「駿河衆は無傷だというのか?」
「はい。わが主の見立ては、氾濫を予期していたのではとのことです」
開け放たれた襖の向こう、明るい廊下で平伏している男は、朝比奈家の武士だ。顔に見覚えがあるから、京にも来ていたように思う。
その視線は忙しなく右往左往しており、時折もの問いたげに勝千代の腹のあたりを見る。
勝千代が怪我をした経緯については、無責任な噂が飛び交っているだろうから、そのどれかを仕入れているのだろう。
朝比奈殿の元に戻る前に、たいしたことはないのだと伝えておかなければ。
いやそれよりも。
庵原家率いる駿河軍が、ほぼ無傷で氾濫した川の対岸にいるという情報だ。
土地勘があるのであれば、富士川が暴れる事は予期できたのかもしれない。だとすれば、あらかじめ被災しそうな村々から避難させておくこともできたのではないか?
もしかして、甲斐兵を押し流すためにあえて見殺しにしたわけじゃないだろうな。
富士川の氾濫は、かつてない規模だという。
もともとあのあたりは広大な湿地帯で、東海道もそれを避けて愛鷹山と富士山の間を通っているぐらいだから、よく暴れる川だという認識はあるのだろう。
それなのに、大きな被害が出る可能性があるのに民を避難させなかったのか?
人が住んでいるあたりにまでは水は来ないと踏んでいたのか?
勝千代は眉間を強く揉んだ。
脳裏にあるのは、しれっとした顔の男前僧侶だ。承菊が仕組んだのだろうか? 甲斐兵を一掃する手立てのひとつとして?
湿地帯は広いが、言い換えればそれは肥沃な土がふんだんにある地域ということで、少し高台になっている部分には田畑が広がる農村がいくつもあった。
東海道の往来を支える宿場町もあったし、渡し守の町はかなりの賑わいだったと聞く。
それらの多くが流されている。人的物的被害はかなりなものだと聞く。
……そのすべてとは言わないが、ある程度は防げたものだというのか?
「避難してきた甲斐兵を討つ為に、水が来ていない愛鷹山のふもとに布陣しているのではないかと」
伝令兵の言葉を聞いて、苦いものが込み上げてくる。
いや、河東はどうなった。
やはりその情報はフェイクで、今回は富士山の西側からの侵略だけだったのかもしれない。
いくら定期便のように毎年襲ってくるのだとしても、本番は収穫期の秋だろう。田植えもまだの今の時期に、乱取りが本命のような甲斐軍がそれほど大々的に襲ってくるだろうか。
富士を迂回する二つのルートに兵を分けたのではなく、今期は西側のみの襲撃だった?
承菊はそれを知っていたのではないか?
どこで迎え撃つつもりだったのかわからないが、丁度都合が良いときに豪雨が来て、氾濫を予期して高台に布陣したのかもしれない。
……そこに住む人々を見殺しにして?
いや、後付けで色々と考えるのは簡単だし、意味はない。
重要なのは、駿河衆が無傷だという事。
河東の件は、実際に敵襲があるのかどうかわからないが、彼らに任せておいていいだろう。
水が来ていない川の上流から中流にかけてはどうする? 甲斐の兵たちがかなり幅をきかせているようだから、朝比奈殿に処理してもらおうと思っていたが、無傷でいるならそこが所領の駿河衆に任せるべきではないか。
丁度いま朝比奈殿がいるあたりが、まさに庵原家の領地だというのがものすごく気になる。
奴のために甲斐軍を追い払う? いやいや、そんな風に考えてはいけない。彼らとて今川家の領民には違いない。
そう思おうにも、むかっ腹が立ったのは仕方がない。
眉間を揉むのをやめて、ちらりと伝令に目をやった。
男は瞬きすら忘れた様子でこちらを見ていて、目が合った瞬間にはっとしたように頭を下げる。何という名前だったか、聞いた気がするが思い出せない。
「朝比奈殿に、深追いする必要はないが、甲斐兵の動きに十分に気を配るよう伝えよ」
駿河衆のいる方向に向かってくれるならいいが、万が一にも駿府方面に抜けられると困る。こちらに後詰はいないのだ。
「すぐに戻るのだろう? 道中気を付けるのだぞ」
「はっ」
男はゴツンと床に額をぶつけて礼を取った。
……流行ってるのかそれ。
伝令の男が去ってもなお、そこには生臭いような泥の匂いが残った。
駿府はすでに晴れている。きっと富士川沿いの被災地も同様だろう。
穏やかな日差しが降り注ぎ、春鳥のさえずりも聞こえるほのぼのとした気候だ。
住まいや田畑、食い扶持の宿屋や商店などを失った者たちは、どんな思いでいるだろう。
脳裏に過るのは、かつてテレビで見た濁流で飲まれる市街地の様子だ。
変わらぬ太陽を恨めし気に見ていた被災者の顔が忘れられない。
「米座の商人たちに声をかけて、今どれぐらい在庫があるか聞いておいた方がよさそうだ」
ぼんやりと外を見ながらそういうと、勝千代の側付きたちが動く。
最近、細かな命令をせずとも動いてくれるので助かるが、時折思いもよらない事をされるので言葉は大切だと思う。
「待て。商人に話をするのなら、大広間で仕事をしている連中に相談してからだ」
人脈のない我らが動くよりも、長年この地で商人たちとも付き合いがある奴らの方が話が早いだろう。
今の状況でよからぬことをしようとする度胸はないだろうし。
「出せる在庫の確認、取り寄せになるならそれに必要な期間、あとはそうだな、味噌や炭や着る物などもいるやもしれぬ」
本来なら、その土地の領主が考えるべき問題だが、おぼれて死んでもいいと思われているのならそこまで配慮はしてくれないだろう。
「銭は今川館から用立てる。徴用するのならきちんと明細を出すように伝えよ」
もちろん立て替えるだけだとも。
きっちりあとで取り立ててやる。




