47-1 駿府 今川館 本殿寝所1
物事はいい方に考えるべきだ。
しばらく休養が許された勝千代は、絶対にもう目はあけないと、ぎゅっと瞼に力を入れた。
このところの制御不能な流れはよくない。
襖を閉め切り室内にいるのは、側付き木原と護衛の市村のみ。他の者は隣室で休ませている。
超ホワイト勤務を目指すのだ。連勤は駄目だ。皆働き過ぎだ。
当然部屋の前には護衛の兵が大量にいる。
井伊兵と、血まみれ渋沢の兵だ。
あの後、渋沢の処遇について、興津を介して御屋形様に相談した。トラブルを避けるために福島屋敷の方へ下がらせ、その後は速やかに遠江まで引かせようと考えていたのだが、「問題ない」との事だ。
結局は先に手を出したのは老女の方であり、渋沢は主家の嫡男を守っただけだと。
むしろ、皆が怖がるので奥の警備担当には適材かもしれない。
今のところ、目立って余計な動きはない。
待て、休養すると決めたじゃないか。
目を閉じているのに、頭の中は忙しなく働いている。
頭の中も休ませなければ。この歳でオーバーワークなどありえなさすぎる。
大広間での恥ずかしい体験の後、勝千代はしばらく部屋でごろ寝する権利を獲得した。
このところ寝不足だった。血液も失っているし、体力を戻すためにも引きこもりは大歓迎だ。
頭ももちろん休養させよう。今は何も考えず……考えず……考えないと決めたのに、脳の活動は止まらない。
溜息がこぼれた。
「……いるか、八雲」
勝千代の声に一呼吸おいて、天井板がコツンと鳴った。
「葛山八郎殿の周辺に動きは」
番所で瀕死状態だった葛山殿の養子は、岡部主従とともに賤機山城にいる。
彼らについても、何が起こっているのか知っておかなければならない。
更に気が重いのは奈津殿の件だ。どうやっても伝わってしまうだろうが、岡部家は桃源院様系の派閥のはずで、これが表に出ればますます今川館が分裂しかねない。
だが一番気にかけるべきは、対北条家だ。
北条が八郎殿を切り捨てようとしているのか、それを口実に今川に何か仕掛けようとしているのか。
いや両方かもしれないと思いなおす。
「よいから降りて参れ」
ぼそぼそと天井裏から声が降ってくるが、よく聞こえない。いや聞こえているのだが、ちゃんと相手の顔を見て話したい。
更に躊躇う気配がしてから、ゴトリと天井板がずらされて、ぱっかりと漆黒の穴が開いた。
臥所に横になり天井を見ていた勝千代は、その向こうにいる男におざなりに頷きかける。
「構わぬゆえ近う」
ものすごく逡巡した末に、天井裏の忍びがするりと闇を纏って降りてきた。
忍び装束ではない。地味過ぎて周囲に埋没してしまいそうな、今川館で働く小者の格好だ。
顔は布を巻いて隠していて、勝千代の中にもその容貌に対する記憶はない。ただその特徴的な体格、手足が異様に長いフォルムだけで、四年前に楓ともども世話になった男だというのはわかる。
「報告を」
「……は」
八雲は対三河を任せていた男だ。まだ若いというのは、四年前より一回り大きくなった体格からもわかる。
それほど広くない部屋の襖のところで平伏し、顔も上げない事に内心ため息をつきながら促すと、ようやくわずかに顔を上げた。
それでも顔は床を向いたままで、こちらを見ようとはしない。
「直接言うてこなかったのだから、大きな動きはないのだろう。だが北条忍びが探りを入れてくるはずだ。まだ来ていないか?」
「……それらしき動きは。むしろ今川館の方から何名か」
「近づけるなよ」
「は」
「五郎兵衛殿はどうしている」
「大雨で崩れた城の修繕に加わっておられます」
五郎兵衛殿自身が? いや指揮を執っているという意味だろう。
奈津殿の事をどう伝えるか迷ったが、ありのままを話すことにした。
「命に別状はない事。ただし療養が必要故に、落ち着いたら賤機山城に移す予定だという事。何があるかわからないので、見舞いは辛抱しろという事」
現在の今川館は、おおよそ勝千代が掌握してるが、奈津殿がいる奥への介入はさすがに最小限だ。
とはいえ、桃源院様は療養中、御台様も謹慎中だ。目立つような動きはどちらも出来ないはずで、逆に何か事が起こるとするなら、これまで見えていなかった者たちのあぶり出しになるだろう。
虎の威を借るではないが、御二方をいいように隠れ蓑にして、今川館の勢力を伸ばしている者たちがいると踏んでいる。
本当に嫌な予感しかしないが、そこがどこかの誰かとつながっていない事を願っている。
「頼んだ」
勝千代がそう言うと、八雲はゴツンと鈍い音を立てて額を床にぶつけてから、その音にぎょっとしてそちらを向く前に消えていた。
さっと見上げた天井は、いつのまにか何事もなく閉じている。
「……市村」
「はい」
「どうやったかわかるか?」
天井から降りてくるのはまあわかる。飛び降りるだけだ。音もなくというのが難点だし、勝千代に出来るかと問われれば無理というしかないが……その逆はどうやった?
天井まではそれなりの距離がある。ジャンプしたのか? 足の裏にバネでもつけているとか?
勝千代同様市村も首を傾げ、わからないという顔で天井を見上げている。木原はいつもの無表情だが、こちらも同様に天井板を見つめている。
「羽でもはえてるんじゃないですか」
やああって返ってきた答えは、何の役に立たない代物だったが、勝千代も同程度しか理解が及ばないので仕方がない。
「羽か」
勝千代の脳裏に過ったのは、グライダーとか、コンサートで使うワイヤーとかだが、どちらもこの時代にはないものだ。
「あれだけ動けると楽しそうだ」
「今度抱えて飛んでもらってみては」
市村が少々いい加減な答えをするのはいつもの事だ。
勝千代は「そうだな」とこちらも適当に返し、再び目を閉じた。
休養だ。休養。
そう言い聞かせなければならない時点で、すでにワーカホリックだ。
なんとか微睡の切れ端を掴みながら、ぼんやりと想像したのは、トランポリンで飛び跳ねる己の姿だった。




