46-2 駿府 今川館 大広間1
興津と並んで本殿大広間へ向かう。
その背後に続くのは、勝千代の側付きや護衛だけではなく興津の側付きたちもいる。井伊家の護衛もいる。今気づいたのだが、その先頭にいるのは次男の彦次郎殿だった。
そこまで大勢が超特急で歩く様は、ものすごく目を引いた。
実に物々しい。
本殿を行きかう者たちは、富士川氾濫の事で騒然としていた。
勝千代らの一団を見て明らかに引いた様子だったが、中にはほっとしたような顔をする者もいた。
まだ誰かが指示を出している様子はない。
本来であれば御屋形様か、駿河衆の重臣が直接差配するような案件だが。それが可能な状況ではなく、動くに動けないのだろう。
つまりは指揮系統のトップが不在なのだ。
まさか承菊の狙いはこれだろうか。駿河衆がいないと国は動かないだろう的な?
大雨のことまでわかるはずはなく、そのとばっちりを一番に負うのが彼ら自身だとは思ってもいなかっただろうが。
「まずは被害の確認ですね。どの程度まで水が来ていて、軍に被害はあるのか」
「……っ、はい!」
歩きながらの勝千代の言葉に、集まっていた文官のひとりが大きな声を上げた。周囲から一斉に視線を集めて、はっとしたように口を手で覆う。
勝千代はちらりとその顔を確認してから、前回と同じ位置に座った。
「効率的にいきましょう。まずは……」
逢坂老が、駿河衆の重臣たちが集まった場でも開いた地図を持ってきて広げた。
富士川は……と思ったところで、富士殿が増援の嘆願を急使で伝えていた事を思い出した。富士殿というぐらいだから、富士川周辺の国人だろう。
富士領に甲斐軍がいるのか? ならば川の水は彼らをも流したのではないか?
「朝比奈殿に伝令」
「……はっ」
「目の良い兵を三十ほど貸していただきたいと」
仕事のない下っ端の文官を使うつもりだったが、場合によっては危険かもしれない。
勝千代はトントンと扇子で手の平を叩いた。
「富士川周辺に詳しい者は?」
おずおずと前に出てきた数人を手招き、近くに座らせる。
朝比奈殿と、そして何故か連なってきた井伊殿が大広間に到着したとき、普段であれば大広間に足を踏み入れることもできない低い身分の文官たちが、上座の勝千代と対面して地図を覗き込んでいた。
「勝千代殿」
井伊殿がそう声を掛け、初めて気づいたように顔を上げた文官たち。
大広間の入り口で折り目正しく膝を折り、礼をする朝比奈殿に対して、井伊殿はおざなりに頭を動かしただけで、状況を測るように文官たちを見回した。
「富士川が溢れたとか」
近づいて来た井伊殿が、厳しい表情で言う。
「被害のほどはわかりましたか」
「まだそこまでは」
勝千代は首を振り、だから兵を貸してほしいのだと朝比奈殿を見た。
「流されていなければ、甲斐兵がいる可能性があります」
「おおそれは……」
井伊殿はその大きな手で自身の口をふさいだ。……今余計な事を言おうとしただろう。わかっているんだからな。
キラキラし始めたその目を見ないようにして、井伊殿よりよほど真面目に被害を心配しているだろう朝比奈殿に頷きかけた。
「今聞いたところによると、このあたりまで水が来ている可能性があります」
勝千代は扇子でなぞるように、河の周りを囲った。
ちなみにがっつり複数の城も砦も含まれている。
田畑や村の被害も気になるところだが、あの地域に展開していたかなりの人数の軍兵がどうなったかを把握する方が先だ。
水害を生き延びたのが駿河衆ではなく甲斐衆だった場合、直接対峙するのは朝比奈殿になるだろう。あくまでも駿河兵が壊滅状態だという前提だが。
「ともあれ被害を確認したいので、機動力のある兵を数十名、地の利のある者を連れて見に行かせたいのです。敵がいた場合にはすぐ引けるよう、騎兵が望ましいです」
富士川沿いのすべてを確認するためには多くの目が必要だった。
万が一敵がいるのだとしても、どこにいるのかの把握が先だ。
可能であれば駿河衆の無事も確かめたいし、氾濫ではびくともしないだろう各城、砦などとも連絡を取りたい。
「……報告はすべてここに。伝言ではなく本人が来るように指示してください。朝比奈殿には直接出ていただく事になるかもしれませんので、兵の支度を。弥三郎殿なら剰余分の兵糧を用意しているでしょうが、不足するようならこちらでも考えます」
「畏まりました」
勝千代は地図に集中していたが、さすがに朝比奈殿のその言い方に驚いた。
いや、畏まるって何? そもそもそういう状況?
疑問を感じて顔を上げると、同じように驚いている文官たちも目を丸くする中、朝比奈殿が床すれすれまで頭を下げていた。
えっ? と声を上げそうになる寸前、ニヤリと嫌な感じで笑った井伊殿が、その隣で同様に頭を下げた。
きっかけは間違いなく朝比奈殿だが、焚きつけた井伊殿も悪い。『かなり』悪い。
勝千代は、次々と居住まいを正し、頭を下げていく文官たちを見回して、ぱかりと口を開いた。
こういう場合はどうすればいいのだ? いやそもそも何故反目していた文官たちまで頭を下げている?
逢坂老の控えめな咳払いで我に返る。
「……それでは、とりかかってください」
勝千代に言えるのは、せいぜいその程度だった。
いや、ほかに何を言えと?
本来は一番に頭を上げるのは朝比奈殿であるべきなのに、真っ先にこちらを見たのは井伊殿だった。
一瞬だけ浮かべたものすごく楽しそうな笑顔に、反射的に顔を顰めてしまったのも無理はないだろう?




