46-1 駿河 今川館 本殿寝所1
明らかに寝不足だった。
気づいた時には、用意してもらった寝間の前にいた。板間の一角に畳が数枚持ち込まれ、その上に寝心地良さそうな寝床がある。
ここまでどうやって戻って来た? 歩いた記憶はないが、抱っこ移動の記憶もない。
正門で、あの騒ぎの後の事を誰かに任せた気がするが、よく思い出せない。……ああ、田所隊だ。
のそのそと直垂を脱ぎながら、今更ながらに田所に全任せしてきたことへ不安を感じた。
特に松原殿へは、手荒な真似はしていないと信じよう。さすがに恵探殿は丁寧に扱ったと思う。兵庫介叔父は……。
しばらく考えて、その間、虚空を見ながら何も考えていない事に気づいて。
もう寝る。絶対に寝る。
バタンと寝床に倒れ込んだ。
あっという間に睡魔が勝千代を包みこむ。
側付きたちが部屋の襖を閉めていき、段々と室内が暗くなる。
さすがに今川館、襖が閉まる音も静かだなと、どうでもいい事を考えながら、それですらふわふわと取り留めもないものになり……
部屋の片隅で、土井が行灯に火を入れる。
灯明の何倍もの明るさが、ほのかに部屋を包み込む。
身体に着物を掛けられて、その手がそっと肩口まで引き上げてくれて。
「逢坂」
勝千代はぽつりとつぶやいた。
「……お休みください」
逢坂老が静かな口調で応える。
「もう少しだけ辛抱しろ」
掛物を整えていた逢坂の手がぴたりと止まる。
その時の勝千代は既にうとうとしていて、ほとんど何も考えていなかった。
ぼんやりと、白い着物を着た逢坂が最期の挨拶に来た四年前を思い出していた。
孫が兵庫介叔父側に付き、その責任を取ろうとしていたあの一件、危うく逢坂家を巻き込み、一族郎党腹を切って詫びるところだった。
目を閉じていた勝千代は、己の「すうすう」という寝息を、どこか遠い所で聞いていた。
なので、逢坂が深々と頭を下げ、周囲もそれに倣っていたなど知らない。
勝千代はうっすらと目を開けた。
周囲は程よく薄暗く、同じ部屋に宿直はふたり。一人は近距離、襖の前にもう一人。
変わったことはなさそうだと、再びまどろみの中に……いやいやいや。
聞こえない。何も聞こえないぞ。
頑なにそう思いながら、ぎゅっと瞼閉じる。
寝返りを打って片耳を下にしたが、聞こえてくる騒ぎは収まるどころか、ますます大きくなるばかりだ。
絶対誰か狙ってるだろう! 勝千代を眠らせまいというどこぞの陰謀があるに違いない。子供に睡眠は大切なんだぞ!
せっかくの眠りを邪魔されて苛立ったが、文句を言う事で完全に目を覚ましてしまうのも業腹で。
「……見て参ります」
そう言ったのは近くにいた宿直、いつ寝ているのかわからない南だ。
外廊下側の襖が開いて、一瞬室内にまばゆい陽光が差し込んだ。あの向きから日が差すということはまだ昼過ぎだ。二十四時間以上寝たのでない限り、正門での事件からそれほど経っていない。
隣室に続く襖が開いた。逢坂老をはじめ、側付きや護衛たちも皆、普段通りにきっちりと身支度まで整えている。
洒落にならないほどブラック勤務な割には、皆疲れた様子もないのが不思議だ。
ダッダッダッダと慌ただしく床を踏み鳴らす音がした。
今度は何だ、何が起こった?
勝千代は渋々と身体を起こした。まだ寝足りない。目がしょぼしょぼして開けてもいられない。
遠慮のかけらもない勢いで襖があいた。勢いあまって柱にバン! とぶつかり、同時に、一気に視界が陽光に埋め尽くされ、思わず顔を顰めてしまう。
「勝千代殿!」
うるさいよ。聞こえてるよ。
襖が開いた勢いにかまけて気づかなかったが、部屋の外にいた井伊の護衛はそれ以上駆け込んでこないように引き留め、うちの谷らは刀の柄に手を当てて警戒していた。
「勝千代殿! 起きて下され!」
興津だ。
皆が警戒する気持ちはわかるが、この男が何かをしてくることはないと思う。
軽く手を振って大丈夫だと伝えると、興津の行く手を遮っていた男が一歩脇に退いた。
「寝ている場合ではございませぬぞ!」
……だったらいつ寝たらいいんだよ。
心の中の突っ込みは声にならず、無様な呻き声がこぼれた。
ずかずかと部屋に踏み込んで来た興津が、勝千代の肩を掴んだのだ。しかもこの男らしからぬ乱暴さで、ぶんぶんと前後に揺らされる。
「勝千代殿!」
がっくんがっくんと頭が揺れて、渋々と、本当に渋々と返答した。
「……………はい」
「勝千代殿! 富士川が氾濫しました! 勝千代殿!!」
ぱちり、と目を開けた。
容赦のない日中の光が眼球に刺さり、鈍く傷んだ。
しばらくは真っ白だった視界に、真っ先に見えたのは興津らしき男の輪郭だった。
「……氾濫?」
とっさに安倍川のことかと思った。
被害は些少と報告を受けていたが、時間がたって問題が起こったのだろうかと。
「興津殿、若は夕べ徹夜でございまして、まだ一刻半ほどしか……」
三時間で起こされた八歳児は、抗議してくれた逢坂老を手で制した。
その手でごしごしと目を擦って、働きの悪い頭の中を整理する。
興津の言葉を理解できたのは、たっぷり数十秒経ってからだった。
「富士川が氾濫したのですか?」
「はい!」
「駿河衆が巻き込まれたのですか?」
部屋の中どころか、廊下の方からもはっと息を飲む声がした。




