45-7 駿府 今川館 正門1
兵庫介叔父の娘で御側室の名前を変更。松原殿です。
眠いんだ、頼むよ。
勝千代は強く……強く! そう思いながら、緩めかけた腰ひもを締めなおした。
部屋の隅に控えた井伊殿が、「おや?」という顔をした。わざとらしいオヤジめ。
土井に渡した扇子を再び掲げられ、ため息を飲み込みながら受け取る。
ぎゅっと腰に差し、じっとりと井伊殿を見る。
「……参りましょうか」
「直々にお出ましですか、助かります」
いやほんと、わざとらしいんだよ!
部屋につくなり、井伊殿の表情が険しくなった。用意された寝心地よさげな臥所に飛び込む気満々だった勝千代は、耳を塞ぎたい欲求をかろうじて抑え、寝たいんだけど、袴脱ぎたいんだけどとアピールしながら井伊殿を見た。
その結果がこれだ。
「いやぁ、こちらに戻りたい故正門を通せと申し付かりまして!」
先程歩いたばかりの廊下を、しずしずとではなくドスドスと、いやペタペタと闊歩してやった。
……それぐらいしか抵抗できないってどうよ。
「我々ではご本人かどうか判断しかねましたもので!」
めちゃくちゃ大声だなおい。
「いやあ御近所にもかかわらず、不肖某、御顔を存じ上げませんで!」
もう良いよ。大体わかったからいい加減黙ってほしい。
周囲からのじろじろと興味深げな視線がついてきて、こちらの一言一句聞き漏らすまいと耳をそばだてているのがわかる。
「松原殿も福島兵庫介殿も、まったく勝千代殿と似ておられませんな! はっはっは!」
何が「はっはっは!」だ。
こんな大声でしゃべっていたら、丸聞こえだ。
お喋り雀じゃないが、聞き耳を立てている文官や女中たちが一気に噂を広げるぞ。
兵庫介叔父と御側室の松原殿が、洪水の噂を聞いて、いち早く今川館から逃げたと。
馬鹿じゃなかろうか。逃げるなら逃げるで、こっそり裏口から出て裏口から入ればいいのに!
井伊殿も知っているだろう? 御側室と姫君の多くが避難なさった。御台様もだ。だがそれは内々の話だ。
どうして兵庫介叔父はそんなに目立つように正門から入ろうとしているのか。
「……遠目に確認でもいいですか?」
駄目なんだろうなと思いつつ、一応尋ねてみる。
「少々叔父とは折り合いが悪くて」
「なんと! 折り合いが?!」
だから大声!
こっそり聞いたのに、返ってきたのは耳をつんざくレベルの大音声だった。
あまりに大きすぎて、廊下の遠くまで響いている。東対の端っこにいても聞こえるんじゃないか。
「井伊殿」
勝千代は井伊殿がいる方の耳を手でふさぎ、ため息をついた。
「御存知なのでしょう?」
幼いころ、あの叔父にどういう扱いをうけてきたのか。だったら会いたくない気持ちもわかるはずだ。
井伊殿はそれには返事をせず、すっと目を細めた。井伊殿の前で傷の手当てや着替えをしたことがあるので、勝千代の身体にまだ残っている諸々の傷跡に気づかないはずはない。
「だからですよ」
井伊殿はそこではじめて声を潜めた。
「折り合いが悪い相手は折りたたんでおくに限ります」
お、折りたたむ?
勝千代はぎょっとして傍らの男を見上げた。
目が合って、にっこりと微笑みかけられ。不覚にもドキッとした。もちろん悪い意味でだ。
それだけ言って、井伊殿は軽く頭を下げて、勝千代に行くように促した。
嫌な予感がする。ものすごく嫌な予感がするぞ。
キリキリと痛む胃を無意識のうちに撫でた。
頼む弥太郎、早く戻って来てくれ。あの薬湯がないと胃が、胃が……。
それでも、大勢の視線を浴びた状況で引き返すわけにもいかず、目をしょぼつかせながら本殿の広い廊下を歩いた。
勝千代が行くと、向かいからくる者たちが道をあける。
女中や下級文官ならまだしも、そこそこの身分の武官までも。
勘弁してくれ。たった八歳の子供だぞ。
勝千代はそれらにおざなりに礼を返しながら先へ進んだ。
向かうは正門。本殿から見ると東側にある四つ足門だ。
嫌だ嫌だと思いながら歩いているうちに、かなりの距離があったはずなのに、あっという間に到着してしまった。
さてどこだろうかと迷うまでもなく、ひどく聞き覚えのある声が、広い正門のど真ん中で響き渡っていた。
その声を聞くだけで、いまだにギュッとみぞおちが固くなる。側で怒鳴られると、きっと身構えてしまうだろう。安全だとわかっていても、逃げ出したくなるかもしれない。
幼いころのすり込みは、それほど強烈で消えないものだった。
……ああ確かに、これは乗り越えなければいけない事だ。
井伊殿が意図したこととは違う気もするが、勝千代はすっと息をすって気持ちを落ち着けた。
「何事でしょうか」
高い子供の声を聞いて、一瞬その場が静まりかえった。
次いで、ずささささっと音を立てながら、幾重にも重なっていた武官たちが左右に割れた。
なんだよ。皆して人を化け物のように……。
視界が開けて、その先に背の高い男がいるのが見えた。
シルエットだけで、それが誰だか分かった。
それまでは規則正しく動いていた心臓が、ドクリと妙なリズムを刻む。
「……これはこれは」
その声が耳朶に届くと同時に、キーンと耳鳴りがした。
「勝千代殿ではないか」
全身を襲っているのは間違いなく恐怖だが、名を呼ばれた瞬間、同時にひどい不快感を覚えた。
「控えよ、御側室松原殿と若君であるぞ!」
叔父の傍らには、小柄だが気が強そうな女性。その背後にいるのは、勝千代と同い年ぐらいの僧形の子供だった。




