45-6 駿府 今川館 本殿6
渋沢が一礼して大広間に入ってきた。
全体的に黒っぽい装束だから目立たないが、その直垂の肩の部分が濡れている。
そうだよな。普通濡れるよな。
全く雨に当たった形跡のない朝比奈殿と、かなりの水しぶきを浴びた渋沢と。
並ぶと奇妙な対比だ。
渋沢は入ってくるなり、北殿での騒ぎについて報告してきた。
安倍川が決壊しそうだという噂が既に広範囲に広がっているようで、かなりの騒ぎになっているとの事だ。
さすがに女性陣は避難だろうか。
その方向で話をしていると「では我らも……」と、この期に及んでまだそんな事を言う文官どもがいたので、勝千代だけではなく、朝比奈殿と渋沢にも睨んでもらった。
「御指示を」
渋沢がそう言って勝千代の顔を見る。
気弱さとは真逆なこの男のことだから、たとえば全員押込めておけと命じたとしても、眉ひとつ動かさずにその通りにするだろう。
だが何となく気の毒だと感じてしまうのは、普段から女性の扱いに苦労していると知っているからだ。
「渋沢は内部の警護を優先させるように。個々の避難に手を貸す必要はない」
はっきりそう明言すると、ひどくほっとした顔をしたから、身分ある誰かに安全なところまでの同行を頼まれたのかもしれない。
「避難したいのであれば止めはしないが、今川館の警備を厳重にしているので個別の護衛などはできかねる。それが御不満ならとどまるように……と」
「水が来るとかなり怯えておられます」
誰とは明言しなかったが、言い方からして身分ある方だろう。……誰とは言わないが。
勝千代は苦り切った渋沢の表情に頷きを返して、「放っておいて構わない」と告げた。
ただ、持ち出して良いのは身の回りのものに限らせる。
身内の誰かの表には出せない書類を、ひそかに隠し持っている可能性もあるからだ。
大の大人が二人がかりで、小柄な子供相手に大真面目に仕事の話をしている。
しかも判断を下すのはことごとく勝千代だ。
それが文官たちにどう見えているのか気になって、視線を巡らせると、不満と怯えと困惑の表情の中に、いくつか興味深げな目をしている者が混じっている事に気づいた。
伏魔殿な今川館で働くすべての者が、ことごとく悪人だと思っているわけではない。
現に岡部五郎兵衛殿のような、まっすぐな若者もいる。
役に立つようならば、そういう連中をうまく使っていかなければならない。
勝千代は心の中の「やる事リスト」にこの件を大きく書き記しておいた。
なんにせよ、すべての詮議が終わってからの話だ。
やるべきことはどんどんたまっていくのに、それより前に優先事項がのしかかってくる。
……忌々しい雨だ。
結局川の大規模氾濫は起こらなかった。
正確には今川館には及ばなかった。
安倍川の上流のほうで多少の被害は出たようだが、幸いにして街中には至らず、被災した村々の避難は完了していた。
備蓄していた米を失ったぐらいで、まだ田植えの季節の前だったので被害は限定的だ。
朝になって、快晴とまではいわないが、見事な朝焼けが東の空を染める。
勝千代が寝不足の目をしばたかせながらオレンジ色の空を見上げていると、何故かつやつやと元気そうな井伊殿が手を上げて挨拶をしてきた。
どいつもこいつも、外回りをしていたはずなのに濡れていないのは何故だ。
今川館に入ってすぐに着替えているからだろうと予想はつくが、それにしても、井伊殿が晴れ晴れと元気な表情をしているのが納得できない。
「お疲れのようですな」
そうなんだよ。徹夜はきつい。
疲れ切っていて、そう返答したつもりでいたが、重い口は閉じたままだった。
代わりにこぼれたのは溜息だ。
「少し休まれては?」
「……ええ。そうせねばもちませんので、部屋を用意させました」
文官どもを足止めしているのに、自分だけ福島屋敷に戻るわけにはいかないからな。
「本殿にですか?」
「北殿で休めと?」
井伊殿は数度瞬きして、視線を斜め上に泳がせてから納得したように頷いた。
「護衛の交代は必要ですか?」
「お願いしてもいいですか? うちの者たちも休ませたい」
「お任せあれ」
並んで廊下を歩きながら、若干ぼんやりとする頭で、何とかしのげた昨晩の事を思い出していた。
ひどい夜だった。
眠れない状況というのは人間の本性を露わにする。
身にやましい事がある者は特にストレスを感じていたようで、嵐になろうが詮議は続けると言うと大ブーイングが起こり、非協力的な者の数が一気に増えた。
同時に、様子見をしていた中立派の存在もわかってきたので、詮議の際にはうまく誘導するよう田所には伝えた。
きっと皆が眠かったと思う。
勝千代自身、幾度となくあくびを噛み殺し、舟をこぎそうになるのを扇子をいじることで誤魔化していた。
詮議が終わった者から休めると知るやいなや、我先にと立ち上がろうとしたのが唯一笑えたところで、それ以外は極めて不愉快で苛立たしい、二度と経験したくない夜だった。
それで、つやつや顔の井伊殿がどうしていたのか聞きたかったが、廊下を歩いていると聞き耳を立てている者もいるので、とりあえずは用意された部屋へと向かう。
歩きながら、大雨の詳しい被害状況について聞いた。
水浸しになった区域が思っていたより狭そうだとか、人的被害はほとんどなかったとか、備蓄米を失った村への補填はどうするかとか。
井伊殿の声がやけに大きくよく響くので、「ああ、わざとか」と察した。
聞き耳を立てている者に、問題のない事だけ聞かせているのだろう。
勝千代は無意識のうちにみぞおちのあたりに手を当て、さすっていた。
井伊殿が届けにきた本命の情報とはなにか、想像したら胃が痛くなってきたのだ。




