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春雷記  作者:
駿河編

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45-3 駿府 今川館 本殿3

 大広間に戻る際中、数名の拘束中の文官を引き連れた田所兄とすれ違った。別所で取り調べをするようだ。

 立ち止まり、進捗について手短に話していると、強い視線を首のところに感じた。

 最近、敵意がはっきりとした形として分かるようになってきた。

 漠然とした気づきではなく、物理的に痛いのだ。

 視線だけでそちらを見ると、二十代前半の若い男と目が合った。

 こちらを睨んでいる事を隠そうともせず、憎々し気な表情だ。

 少し顔を傾けて田所に目を戻す。

 わかっているだろう男はニヤニヤするだけで、特にその文官を咎め立てもせず勝千代を見ていた。

 続く報告があまりにも露骨で、報告というよりももはや放言、罵倒の域に達していたので、借り物の扇子で軽く胸元を叩いておいた。

「事実だけを言え」

「そうは仰いましても」

 田所は人の悪そうな表情で、クックと喉を鳴らした。

「無能者は死ねばいいのにとお思いになられませんか」

 哄笑とともに吐かれた毒に、勝千代を睨んでいた男の顔面から血の気が引いた。

 相変わらずのドS振りに、苦笑がこぼれる。

 仕事が楽しいのはいい事だが、対象をおもちゃのように扱うのはよくないぞ。

「贈賄着服を当然のものと思っている者が多すぎます」

 田所の、ぶつぶつとこぼれた苦情は本心だろう。

 はっきりした犯罪行為については、わかる分をまとめて、証拠をつけて主家へ送る事になっている。主家のない場合は直接賠償請求だ。金銭で片が付くのだから安いものだろう。

 もちろん質が悪いものについては詳細を審議することになる。簡単に流れ作業で済ませるつもりはない。

「さっくり切り捨てれば早いと思うのですが」

「全員殺せとでも言うのか」

「もうそれでいいんじゃないですか」

 早くも面倒になってきたらしい田所のボヤキに、呆れの目を向ける。

 こいつ、勝千代を血まみれの粛清者とでも呼ばせたいのか。

「中にはまっとうな奴もいるかもしれない」

「贈賄は文化、着服は慣例だそうですよ」

「それは……」

 勝千代は顔を顰め、視線を泳がせている文官たちを見た。

 日本人的気質として、周囲と同調してしまうのはわからなくはない。だがその行為が褒められたものではないと、わからなかったとは言わせない。

 因果応報だろう。

 勝千代はそう思ったことを隠しもせず、実際に口にもしたが、ますます敵意は増すばかりだ。

 直接取り調べをして散々な事を言う田所ではなく、勝千代に恨みを向けてくるあたり、弱い者にしかそういう態度は取れないのだろう。

 不意に田所が立ち話でこの話題を振ってきた理由を察した。

 なんだ、殺せと言えばよかったのか? ……そういう訳にはいかないと分かっているだろうに。

「これまで良い思いをしてきたのだろう。勤めを全うしなかったのだから咎は負うべきだ」

「まあ、その通りですね」

「ただ」

 勝千代は不愉快な視線を向けてくる文官から顔をそむけた。

「重要な事件について、知っている事を話すのであれば情状を酌量することにしよう」

 あくまでも情状酌量だぞ。許すわけじゃないからな。

 田所には伝わっただろうが、文官たちは言葉の表面だけを取って、お互いの顔をちらちら見あっている。

「個別の面談の際に、その事を伝えてやるがよい」

「面白いですね」

 田所め。諾とも否とも言わなかったな。

 こんな口約束に踊らされるのだろう連中を、気の毒に思うべきだろうか。

 いや、こいつらの心情より、今川館の実情を白日の下にさらすことのほうが優先だ。


 配下に命じ、不穏な表情を隠せていない文官たちを別室に連れて行かせてから、田所はなおも勝千代のもとへ残った。

 言いたいことがあるのだろう、くるりと強い雨がしたたり落ちる庭先に顔を向けて、天気の事を話しているように見せかける。

 勝千代もまたそれに倣って、だばだばと軒先から落ちてくる雨を見上げた。

「三浦本家の件ですが」

 田所はいったんそこで言葉を切った。

「若がお持ちの書類と、今川館のものとを合わせると面白い事がわかりました」

 田所ですら一瞬言葉にするのをためらうほどか。

 もとより、それを知りたくてここまで来たのだ。

 誰が父を嵌めたのか。福島の兵を無残に散らせたのか。誠九郎叔父が死ななければならなかった理由を、確かめなければならない。

「……誰だ」

 田所は、勝千代をちらりと見下ろしてから、もう一度庭先に顔を向けた。

「松原殿です」

 ぎゅっと目を閉じ、込み上げてくる激情をいなした。

 松原殿は御屋形様の御側室であり、時丸君の御生母だ。兵庫介叔父の娘でもある。

 手の中で、借り物の扇子の骨がぴしりと鳴った。

「……兵庫介叔父上か」

 もちろんそんな大それた企みが、叔父だけで成せたとは思えない。さらに奥に、誰かがいる可能性はある。

 だが、叔父を殺した、父の目を奪った。その仇が兵庫介叔父だと聞いて、たいして驚きはしなかった。

「そうか」

 勝千代は静かにそう言って、しばらく口を閉ざした。


 雨足は一定だが、弱くはない。ざあざあと降り続く雨の音だけが響いている。

 日本特有の、湿度の高い空気。

 やけに生暖かいと感じる風が頬を撫で、霧のような雨飛沫が直垂を濡らした。

 ぴょこん、茂みからアマガエルが飛んだ。ツツジの茂みに逃げ込もうとするその動きを目で追いながら、溢れ出そうな怒りを念入りに腹の奥に納める。

 焦ってはいけない。

 言い逃れできないよう囲い込み、確実に仕留めなければならない。

「引き続き調べを続けろ」

「こちらでわかるのは金銭の動きが主です。関係者に喋らせる必要があります」

 関係者か。例えば誰だ? 兵庫介叔父の配下の者についてはよく知らないのだ。

 ふと、一度だけ垣間見た時丸殿の顔を思い出した。

 勝千代とはほぼ年子で、優秀だとかなり評判だ。

 桃源院様の御意向で、龍王丸君以下の若君は僧籍に入った。後継争いを警戒しての事だ。

 それなのにまだこんなことをしているのか?


 ゴロゴロと雷の音が近い。

 ピカリと空が光るが、落雷の音はしない。

 次第に強まる雨足と、暗さを増す雷雲と……状況の不穏さがそのまま天候に写し取られたようだった。

 一瞬、まばゆいばかりに周囲が光った。

 でっぷりと肥えたアマガエルが驚いたように跳ね、下草の中に飛び込んだ。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 苦情が来るような内容じゃないと思いますが、毎日の楽しみが減ってしまったら困りますね。 [一言] ifでも正史をなぞるにしても、全く知らない時代の事なので、知識欲もワクワク感も満たされ、…
[一言] 正統が途絶したら還俗もやむなしよね♪ 何なら頭つるつるのままやりたい放題してる人だっているわけですもんね。
[一言] 額面通りに考えれば僧籍に入って「一応」家との縁が切れたことになってる庶子に母親の実家があっても後見職のような某叔父の立場の人間が普通にいる時点(これを言うと俗世間と交わりがあるイケメン坊主に…
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