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春雷記  作者:
京都編

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4-3 上京 一条邸 離れ3

「大丈夫ですよ」

 勝千代は落ち着かせるために姫君の頭に手を置いた。

 艶のある髪をぽんぽんと撫でれば、驚いたように目を丸くする。

 年齢的には一歳年下だが、この年頃の女児は男児よりも発育が良いので、頭一つ分近く姫君の方が大きい。

 愛姫はきょとんとした様子で勝千代を見下ろし、それから「むう」と唇を尖らせた。

「早う! 裏から母屋に行けば……」

「東雲様、姫さまをお任せしても?」

「あにさま!」

 東雲が頷くのを確かめる間もなく、再び前後に揺すられそうになって、慌てて身を引く。

「私への客人なら、私がお相手しませんと。どこのどなたかお判りになりますか?」

「政所執事伊勢備中守さまです」

 答えたのは姫ではなく、聞き覚えのある男の声だった。

 そちらに顔を向けると、障子の敷居のあたりに鶸が片膝をついて控えていた。

 相変わらず凡庸な雰囲気の、灰色の狩衣姿だ。一度視線を逸らしてしまえばすぐに存在を忘れてしまいそうなほど、存在感が薄い。

 だがその目が佐吉の上を滑り、勝千代に据えられた瞬間、ものすごく申し訳ない気持ちになってしまった。

 そうだよな、東雲を余計なトラブルに巻き込むべきではない。


「おひいさん。面白いもん見とうはないですか?」

「……面白い?」

 今のうちに離れを出るようにと言おうとしたのに、当の東雲は悪だくみをするようにニマニマと目を細めながら扇子を半開きにして口元を覆った。

「幕府御所の黒蛇の御顔は、一度拝見したいと思うとったのよ」

 黒蛇?! なにそれ。伊勢殿のこと?

 厨二チックな二つ名に、多少なりと心をくすぐられて目を瞬かせるのと、若干まだ遠いがガヤガヤと人の声が聞こえてきたのとは同時だった。

 離れとはいえ広いが、距離的にそれほどあるわけでもない。すぐに部屋まで来てしまうだろう。

「お勝殿」

 そちらに気を取られて顔を背けているうちに、東雲は愛姫と連れ立って隣室の小部屋に隠れようとしていた。

「ここに一条家の玉がおることを忘れずにな」

「……なんですかそれは」

 脅しか。脅しだな。

 勝千代が無理を通して流血沙汰にでもなれば、権中納言様にご迷惑が掛かるのと同時に、のぞき見しているお二人にも危険が及ぶ可能性がある。


 そもそも、どうして覗くんだよ。安全なところまで離れているという考えはないのか?

 助力を求めて鶸に視線を向けてみるが、鶸はそもそも勝千代の方など見てもおらず、お二人がいるには手狭過ぎる部屋に、脇息やら几帳やらを運び込もうとしていた。

 止めることはできないと踏んで、勝千代は肩を落とした。

 不安そうにこちらを見ている愛姫様に向って、安心させるようにニコリと笑顔を向けるのがせいぜいだ。


「皆を庭先に集めよ」

 まだ廊下にはいつくばって頭を下げている三浦を見下ろし、そう命じてから、ひっそりと部屋の隅に控えていた逢坂老に目を向ける。

「どういう御方か知っているか?」

「おひとりで十人分の仕事をこなされる能吏だと聞いたことがございます」

 ……それって誉め言葉? 嫌な予感がするんだけど。


 詳しい話を聞いている暇はなく、大勢の足音が近づいてくる。

 勝千代は、東雲が尋ねてくるまで使っていた文机の前に行き、積み上げられていた課題の山を手に取って、おもむろに畳の上に広げた。

 硯には乾きかけた墨が残っている。陶器の水差しで水を足し、固くなった筆先にそれを含ませると、部屋中に墨のいい香りが充満した。

 


「申し上げます。福島勝千代様。お客人がいらしております。お通ししてもよろしいでしょうか」

 土居侍従がそう言ってお伺いを立てるまでに、素早く何枚かの紙に筆を走らせておく。

 乾いた文字ばかりではすぐに見抜かれると思ったからだ。

「……お客人ですか? 予定はありませんでしたが」

「失礼する」

 うわ、松田殿だ。真っ先にその思いが頭に過る。

 表情にも出てしまったのだろう、松田殿もまた顔を顰めている。

「申し訳ございません。手習いの途中でして……すぐに片付けます」

 三浦と土井に素早く乾いた分を拾わせて、己はまだ濡れ墨が光っている紙を持ち上げる。

 手を汚したのはわざとだ。


 松田殿に一言断りを入れてから、庭で手を洗うために部屋を出た。

 すでに庭先には福島家の者たちが控えているはず。伊勢殿が一条邸にそれほど多くの兵を連れ込めたとは思えないから、何かが起こった時にはこちらが有利になるだろう。


 離れが面しているのは中庭だ。

 中庭といっても、さすがは一条邸、かなり広々とした和庭園で、三十人もの兵が控えていても景観的な問題は何もなかった。

 目論見通りに安全圏の庭先に降り、必要以上にゆっくり丁寧に手を洗う。

 ここの手水鉢には絶えず水が流れ続けており、鉢底まできれいに磨かれていた。


「お勝殿」

 回廊になっている廊下のほうから、権中納言様に名を呼ばれた。

 わざとそちらに背を向けるようにして手を洗っていたので、ワンクッション、気持ちに余裕を持たせることができた。

 福島家の者たちが、何かを堪えるように唇を引き結んでいる。

 それにさっと視線を走らせ、特にピリピリしている谷へはひと際じっと、「刀だけは抜くなよ」と念を込めた。

伊勢殿(伊勢貞忠)の官位について、作中時代(1524-5)に何だったかの資料がみつかりませんでした。

御存知の方がいらっしゃいましたら、教えて頂けると幸いです。

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福島勝千代一代記
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― 新着の感想 ―
[良い点] ついさっきまで書き物をしていたので手が汚れていても仕方ない。 来客があっても手が汚れているので洗いに行くのは当然。 手水を使っていたので中庭に配下が控えていても問題ない… どんな些細なこと…
[一言] 記録見たら伊勢守とだけ表記されてたんで伊勢伊勢守とは呼ばれてなかったようです 有力な幕臣だったんで伊勢守といえば伊勢氏で通じてたんでしょうね 北条と伊勢の繋がりは今でもよくわかってないので楽…
[一言] 大永3年(1523年)に伊勢守貞忠亭御成記が記録されてるんで伊勢守だったんじゃないですかね 後継ぎも伊勢守なんでそこから変わってないと思います
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