45-2 駿府 今川館 本殿2
厠に通う回数が多いのは、向けられる敵意へのストレスもあるが、聞かせるわけにはいかない報告を受け取るためでもある。
きちんと手入れが行き届いた手水鉢にはチロチロと水が流れていて、しかもそこは屋根付きだった。この雨の中、井戸端まで歩く必要がないのはありがたい。
片膝をついた渋沢が、柄杓で水をすくい勝千代を見上げる。まじめな顔をしているのはいいが、この男と行動をともにしていると別の意味で視線が痛い。
文官たちは複数個所に分散して留め置いているので、視線を向けてくるのはそれとは別の者たちだ。
無視するにも強烈過ぎるので、ちらりとその方向に目をやると、案の定、女官らしき者たちが複数名、細い悲鳴を上げて柱の陰に引っ込んだ。
彼女たちがこの状況下で自由に動けている事に顔を顰める。
ここは奥殿ではないので、女性の姿を目にすることは滅多にない。たまに見かけるとしても、白湯や食べ物を運んでくる時ぐらいなもの。つまりは今悲鳴を上げたような、身分ありげな武家の子女ではない。
勝千代が視線を向けたので、渋沢も真顔のままそちらを向いた。
たちまち先程とは違う意味での悲鳴が上がる。
女官殿たち。見えてる、見えてるから。
福島屋敷でもそうだったが、アイドル渋沢をひと目見ようとする女性たちのパワーは凄まじい。
本人は不本意極まりない様子だった。これでは確かに仕事にも障るだろう。
だが……利点もあるはずだ。
「申し訳ございません。すぐに北対に戻るよう伝えさせます」
そう言って立ち上がろうとした渋沢を制する。
相変わらずの塩対応。勝千代にはよくわからないが、そのすげないところも良いらしい。
「……話をして来ればよい」
「は?」
冗談だろう、と目で訴えられた。
この整った顔立ちを完全に不要なものだとみなしている渋沢は、見た目にそぐわぬ生粋の武骨者である。
それをうまく利用してやろうという気が全くないのは、田所兄に言わせると「宝の持ち腐れ」らしい。
「送っていくついでに、何か耳寄りな話を聞いて参れ」
見下ろした渋沢の顔には、思いっきり「嫌です」と書かれている。
勝千代は苦笑して、柱からはみ出している鮮やかな打掛の女官たちを横目で見た。
ちょっとだけでも笑顔を向ければ、口が軽くなるだろうに。
だがまあ、人間には向き不向きがある。
勝千代は少し考えて、五人ほどが団子になって隠れている(つもりの)柱をもう一度見た。
「どこの女官かわかるか?」
渋沢はまったく興味なさげに首を横に振った。仕方のない奴だ。
「女官どの」
勝千代がそう声を上げると、彼女たちが飛び上がって驚いた。こちらが気づいていないと思っていたのだろうか。
「少しよいだろうか」
おずおずと柱から顔が出て来て、露骨に勝千代ではなく渋沢を見ているあたり、なんだかなといった感じだが、そこは重要な点ではない。
「手ぬぐいを忘れてしまった。お持ちなら貸していただきたいのだが」
こそこそと話し合うような気配がした。
「男ばかりだと気が利かぬ」
こちらは男前と可愛らしい少年だぞ。
それをアピールしながらそういうと、意を決した様子で一人が柱の影から出てきた。
十代後半の可愛らしい女性だった。
柱の向こうから引き留めるような声が聞こえるが、意を決したように背筋を伸ばしているあたり、肝が据わった女性なのだろう。
手招くと、躊躇いながらも近づいて来た。十メートルほどの距離があったのに、あっという間に距離を詰めてきて、しかもほとんど音を立てない上品な足運び。
「……こちらでよろしいでしょうか」
そう言う声まで可憐で、うちの独身連中にモテそうなタイプだ。
「すまぬな」
「いいえ」
この期に及んでも、低い位置にある勝千代の顔には目を向けず、男前の顔面ばかりを凝視しているのが面白い。
渋沢の眉間に深いしわが刻まれる。その、いかにも「不愉快です」といった表情にも、彼女はただうっとりするだけだ。
勝千代が、差し出された手ぬぐいを受け取るように促すと、もの凄く嫌そうな顔をされた。もちろん保安の観点から、渋々と女官の方を向いたが。
「きゃあ!」という悲鳴が柱の影から上がった。
勇者(女官)は今にも気絶しそうな顔をして、渋沢が差し出した手の上に手ぬぐいを置く。
その手はぶるぶると震えていた。顔は真っ赤だし、ちゃっかりその手に触りながら手ぬぐいを置いたので、怯えているという風ではなかったが。
「渋沢」
勝千代は失礼なほど念入りに手ぬぐいを調べている男に、改めて声を掛けた。
「疲れた故、座りたい」
「……はあ」
何を言っているのだという顔をしたのは、渋沢だけではなかった。
実は勝千代の護衛に十人はついている。しかも相当にむさくるしい連中ばかりだ。
そこへ突撃を掛けた女官殿は間違いなく勇者で、柱の陰にいる者たちはなお遠巻きにこちらを覗き見ている。
勝千代は、手水鉢の近くに置かれている竹製のベンチ(違う呼び方があるはず)に腰を下ろした。
吹き込む雨もそこまでは届いていないので、尻が濡れる事もなかった。
「ずいぶんと降る」
まだ声変わり前の子供の声に、女官殿はようやく興味を引かれたような顔をした。
勝千代を見て、渋沢を見て、勝千代を見て。もう一度渋沢を見てから頷くあたり、徹底しているなと逆に笑いが込み上げてくる。
「女官殿は駿河の出か?」
「……はい」
「駿河はそれほど雨が多いのか?」
こてり、と首を傾げる。
女官殿に警戒心が沸き起こったのが手に取るように分かった。
「ここに来る時には雨の日が多い気がする」
「……季節の変わり目ですので」
「そうよな。それにしても」
ゴロゴロゴロ……遠くで雷の音が聞こえた。
「きゃっ」と悲鳴を上げた女官が渋沢に縋りつこうとして、華麗にひらりと避けられる。
そこで転ばないあたり、女官殿も本気で怯えたわけではなさそうだ。
ものすごく残念そうな顔をしているので、苦笑してしまった。
「雨が多いと不便も多かろう。男手が必要なことがあれば言うがよい。渋沢が手を貸してくれるだろう」
「勝千代様」
パッと表情を明るくした女官殿に対し、渋沢が抗議するような顔をした。
いいじゃないかそれぐらい。
「まあ、ありがとうございます。お気遣いに感謝いたします」
単純に気を許したわけではなさそうだが、笑顔は貰えた。
本当ならもっと突っ込んで話を聞き出したいところだが、警戒した女性の口を割らせるのは簡単な事ではない。下手に嘘の話をされても困るので、今回はこれで引くことにした。
あとは渋沢に……は無理か。田所らが話を聞くこともあるだろうが、多少は話しやすくなるはずだ。
「それにしてもよう降る」
「さようでございますね」
勝千代がそれ以上何かを聞き出そうとするわけではないと察知したのか、女官殿はほっとしたように相槌を打ってきた。
お勤め中の彼女をそう長く引き留めておくわけにはいかない。勝千代とて、すぐにも大広間に戻らなければならない。
「仕事にもどりとうないな」
「まあ、若君」
くすくすと上品で軽やかな、耳に優しい含み笑い。
普段むさくるしい男ばかりに囲まれているので、なかなか珍しい体験だ。
勝千代はふっと笑みを浮かべ、女官殿を見上げた。
「だがやらねばならぬ。仕方がない」
「お勤めご苦労様にございます」
本当にな。
大広間のぎすぎすした空気を思い出し、げんなりする。
「……いや、世話になった。手ぬぐいは後日渋沢に返させる故、しばらく貸しておいてくれ。そういえば名を聞いておらなんだ」
「ユキと申します」
「ユキ殿? どういう字を書くのだ? 私の妹も幸という。幸あれのユキだ」
「冬に降る雪のユキでございます」
「ああ……美しい名だ」
女官殿は今度こそまっすぐ勝千代をみて、ほころぶように笑った。




