45-1 駿府 今川館 本殿1
御屋形様の居室を出てもなお、興津がずっとついてきた。
彼が危惧している事は何か、さすがにわかる。
方々からの視線は優しいものではなく、むしろ刺々しく殺気立っていた。
ひとりで歩いていたら、どこぞの部屋に連れ込まれて首を掻かれていたかもしれない。
御台様がいた部屋まで戻ってくると、苛々とクマのように歩き回っていた逢坂老が、勝千代に気づいて駆け寄ってきた。
その安堵の表情を見上げて、自身もまたかなり緊張していたことに気づく。
「御無事で」
長い嘆息の後、ざっと全身を目で確認されて、それから小さな声で問われた。
「どこもお怪我など御座いませぬか」
勝千代は不安そうな逢坂と、すかさず勝千代の背後に張り付いた谷とを交互に見て、確かに危うかったと頷いた。
「ここは伏魔殿だな」
御屋形様の部屋まで行って戻って来ただけなのに、その道中で浴びた敵意は物理的に痛みを感じるほどだった。
とても、子供に向ける類のものではない。
「早く帰りたいが……仕事だ」
そう言って腕をさすり、改めて襟を正した。
皆を促して、本殿の方へと引き返す。
これからやらなければならない事は多い。まずすべての人員を執務から遠ざける必要がある。
勝千代がこれからの事を考えながら廊下を歩いていると、こそこそと誰かがしゃべっている声が聞こえてくる。どう考えても好意的なものではない。
こうなることはわかっていたし、奥殿ほどの敵意ではなかったので、たいして気にも留めず歩き続けた。
おそらく多くの者が、子供の大言壮語など大したことはないと思っていただろう。
大国の根幹をなす部分なので、その文書量は膨大だ。ひとりですべてに目を通すなど不可能。調べると言っても、どこから手をつければよいかわからないはずだ……と。
確かに、漠然とした目標はあるが、具体的な手段を考えていたわけではない。
だが、できないと思っていたわけでもない。
勝千代が本殿の半ばほどに差し掛かった時、廊下の反対側から三十人ほどの臼灰色の直垂の集団が現れた。
彼らは一様にその場で片膝を折り、勝千代に向かって頭を下げる。
「田所」
その先頭にいるのは、叔父の腹心だ。
白エノキこと田所兄が、片膝をついた姿勢でこちらを見上げ、その青白い顔ににいっと不気味な笑みを向かべた。
「人使いが荒いのはお血筋でしょうか」
「忙しくなるぞ」
「半日頂ければ、あと五十人ほど用立てましょう」
足りるかな。
勝千代はほんの少し頭を傾け、恐々とこちらを覗いている今川館の文官にちらりと目を向けた。
「井伊殿には、誰一人外には出すなと頼んである」
田所は口の中で「ふっふっふ」と不気味に笑い、「懐かしい感じがしますね」と言い置いて立ち上がった。
「どの程度がご所望で」
「わかっているだろう」
「面白くなってまいりました」
「どこぞの誰かと同じ事を言うな」
四年前、福島屋敷の書類を総ざらいさせた。その時よりも何倍も規模は大きい。
正直なところ、江坂家の者たちだけでは人員が足りないかもしれない。
だが、やることは同じだ。
「気兼ねはいらぬ」
「まずは大広間に集めるところからでしょうか」
「やり方は任せる。御屋形様からの許しは得ている」
志郎衛門叔父の抱える者たちは、多くは文官系だが、荒っぽい事が苦手なわけでもない。
四年前にその事を十分見知っていたので、丸投げすることに躊躇はなかった。
むしろ彼らに出来ないと言われる方が困る。
田所が頷くと、江坂の者たちが一斉に立ち上がった。
ざっと床を払う音がして、改めて見回すと大勢の顔見知り。全員が同じお仕着せの直垂を着ているので、異様な雰囲気だ。
その常になく厳しい表情を見るに、手が足りない心配よりも先に、やりすぎを注意したほうがよさそうだ。
再び歩き始めた勝千代の背後に、江坂家の者たちが続く。
ざっざと大きくなった足音に、柱の影からこちらを見ていた者たちが一斉に引っ込むのがわかった。
「方々、これより監査に取り掛かる。今いる場所から動かず、書き物には触れず、すぐに廊下に出るように」
田所の声は特に大きくもないのに、遠くまで響き伝わった。
一瞬建屋の中が静まり返り、次いでざわざわと騒ぎが聞こえてくる。
「私語は慎み、おとなしく指示に従うよう。なおこれは御屋形様がお認めになられた監査である。抵抗するのであれば、相応の覚悟を」
しっかり恫喝も含むあたり、こういう仕事に慣れている男なのだ。
大広間まで戻るのに相当時間を要した。
広すぎる建物は不便だ。
勝千代は周囲からの怯えの混じった視線を浴びつつ、駿河衆の消えた広間を横切り上座に向かった。
まだ血だまりが残っていて、時間が経過して生臭く錆びた臭いが強くなっている。
「そう言えば、桃源院様の御容態は? 何か御存知ではないですか」
「さあ」
田所め。わざわざここでこの話題を振るとは。
たとえ御屋形様の実母であろうとも、容赦しない。聞き耳をたてている連中は強くそう印象を受けただろう。
「かなりの深手だとお聞きしましたよ」
「わからない」
勝千代は誰よりも間近でその現場を見ていたが、そういえばその後どうなったのか聞いていなかった。大怪我だろうとは予測がつくが、亡くなられたとは聞いていないから、どこかで手当てを受けているのだろう。
そうか、そちらも注意しておくべきだな。
「御屋形様も相変わらず容赦ない方ですねぇ」
おお怖い……と、わざとらしく腕をさする仕草をする田所をチラ見して、勝千代は「お前の方が怖い」と内心呟いていた。
ここでその話題を続ける度胸はさすがだ。




