44-8 駿府 今川館 奥殿2
雨が降り続けている。
雫の大きな重い音ではないが、ずっと砂粒をたたきつけられているような、ホワイトノイズのような雨音だ。
まるで、音に閉じ込められたかのような閉塞感。
何もかもが雨に覆い隠されてしまう錯覚すら覚える。
「こちらへ」
ひどく力のない声でそう言われて、勝千代は顔を上げた。
その部屋は十畳ほどの、想像していたよりもずっと狭い部屋だった。
襖を開け放てば広く使えるのだろうが、今は四方を木襖でしっかりと閉ざしている。
寝間の周囲には几帳。さらには火鉢。病人にはこの肌寒さも身に障るのだろう。
几帳の内側に膝歩きで入り、もう一度頭を下げると、真っ白な細い手が臥所の上でふわと振られた。
あの手が先程刀を握り、人を切った。佞臣はともかくとして、己の母親までも。
どうしてもそんな余力があるようには思えず、じっとその手の動きをみていると、ややあって、御屋形様の声が頭上から聞こえた。
「上総介は無事だと聞いた」
無事ではない。
片目を失い、負傷もしていて、誠九郎叔父も亡くした。
恨み言を言いたかったが、それよりも重篤な相手を前に言葉は出なかった。
「……すまぬな」
何に対しての謝罪なのかは、考えないようにした。
勝手な御方だ。無責任だとも思う。
病気の事は仕方がないとしても、四年も猶予があったのだ、ここまで事が拗れる前に何かできたはずだ。
御屋形様には強権を振るう事も、桃源院様や御台様を諫める、あるいはその行動を制御することもできた。
それをしなかった理由など……今更どうでもいい。
「三浦が信濃と通じておりました」
「……ああ」
「更には、今川館とも何らかのやり取りがあったと思われます」
勝千代は伏せていた顔を上げ、臥所に横たわっている青白い顔の御屋形様を見下ろした。
誰かが、はっとしたように息を飲む音が聞こえた。
控える興津だったかもしれないし、医師のひとりだったかもしれない。
だがそれによって、ここにいるのが御屋形様と勝千代との二人きりではない事を強く自覚した。
御屋形様はわかっておられるだろうか。
ここの話は筒抜けになる。
御台様に、駿河衆に、生きておられるのなら桃源院様にも。
雨が降っている。
ずっと同じ勢いで、軒先から流れ落ちる音が聞こえる。
ざあざあと屋根を打ち、庭先の石畳を打ち、庭木を打つ。
じっとこちらを見ている御屋形様は、まるでその音に埋め尽くされ、静かに命の灯を吹き消してしまいそうに見えた。
「……如何する」
返答によっては失望するのだろうと思っていたが、案の定、御屋形様の口からこぼれたのは、こちらの意向をうかがうどっちつかずの台詞だった。
何をお考えなのだろう。このままでいいとお思いなのだろうか。
「今川館の文書類を精査させていただきたいです」
勝千代はきっぱりと言い切った。
それにより多大な反感や抗議の声が上がるのはわかっている。だが身にやましい事がないなら、すべてを開示できるはずだ。
「調べてどうする」
「ではお伺いしますが、たとえば今川館に信濃と通じる密約をしている者がいてもよろしいのですか」
「勝千代殿!」
背後から、興津が諫めてきた。
馬鹿だな。大人しく意に沿うだけが忠義ではない。耳に痛い、後回しにしたいことだからこそ、はっきり伝えなければ。
御屋形様には、残された時間がそれほどない。
「佞臣どもを綺麗にしておかねば、若君がご苦労なさいましょう」
どこか作り物のようだった御屋形様の目に、生気が過った。
それはどう見ても、言葉の意味に反応したのではなく、勝千代がそう言った事への興味だった。
「そのほうにとっては、都合のいい事もあろう」
「いえまったく」
今川館に把握しきれない疑惑があることが、勝千代にとってどんな利点があるというのだ。
「お勝」
きっぱりと首を振った勝千代に、御屋形様がうっすらと笑った。
どこに笑える要素があったのだ。思わず顔を顰めると、「ふふ」と笑い声までこぼれる。
「この世は諸行無常よ」
「驕れるものも久しからずですか?」
「人の世はそうやって続いていくものだ」
どういう意味だ? 今川家が滅びてもよいと言っているのか?
勝千代が眉間のしわを深くすると、白い手がこちらに伸びてきた。
とっさにその手を握り返していた。
冷たい手だ。やせ細り、骨ばり、握り返すのが不安になるほどの弱々しさ。
「お勝」
「はい」
「……そなたはそなたが思うように生きよ」
御屋形様はそう言って、力尽きたように瞼を伏せた。
すかさず寄ってきた医者が、確かめるよう反対側の腕を取り脈を測る。
これは、言質を取ったと言ってもいいのか?
判断しかねて顔を上げると、思いのほか大勢いた大人たちが軒並みこちらを見ている事に気づいた。
この中の何人がどこぞの間者なのだろう。
そんな事を思いつつ視線を返すと、幾人かは気まずそうに、幾人かは取り繕った表情をして顔を俯ける。
御屋形様は「思うように」と仰った。ここにいる皆が聞いていた。
勝千代は最後にもう一度、青白い顔で瞼を落としている御姿を目に焼き付けた。
生気のないその顔は、何度見ても冗談かと思うほど己にそっくりだった。
ここまで似ていなければ、状況はもっと違ったものになっていたかもしれない。
「ご安心ください。思うように片させていただきます」
そう言って、深々と頭を下げた。
退室しようと一呼吸している間に、ふっと頭に手が触れる感覚がした。
優しく撫でるような動きだった。
何故か、目の奥がツンと痛んだ。




