44-7 駿府 今川館 奥殿1
駄目だと思った者はいたはずだが、行く手を遮られはしなかった。
勝千代を先頭にずかずかと廊下を歩くのは十数名。五名ほどが完全武装、残り五名ほどが直垂姿だ。
奥殿に近づくにしたがって遠巻きの視線は増えていくが、誰も直接咎め立ててはこない。
それを許容だとは思わない。物々しさに様子を見ているだけだ。
「お、お待ちください」
だがさすがに、御屋形様の居室の近くになれば、意を決した青袴たちに止められた。
ようやくかと思い顔を上げると、間近で勝千代を見て驚いたように息を飲んでいる。
「御屋形様はどうされている? お話したいことがあるのだが」
「いや、今は……」
この男が何に驚いたのかはわかっている。そういう視線はいつものことだ。
構わず更に続けようとすると、「勝千代殿」と馴染みの声で名を呼ばれた。
ぐるり、と首を九十度真横に向けたところに、興津がいた。
こちらもひどい顔色だ。
「今はお会いになれませぬ。かなり消耗なさっておいでで……」
「先程庵原殿が出陣の許可を得に来られたでしょう」
それとこれとは違うと言いたげな顔をされたが、迷わず続ける。
「こちらも急ぎの話です」
ここで追い返されそうになったとしても、無理にも押し入るつもりでいた。
御屋形様が病人なのはわかっている。
だが、当主の座にある限り代理はいない。全権を委託された者がいるならそちらと話をするが、今のところそれに最も近い立場なのは桃源院様と御台様だった。
いくら何でも御屋形様に切り付けられた御方と話は出来ないし、感情的な御台様とも無理だ。
そう思ったところで、女性の香と衣擦れの音がした。
「ここはそなたが来てええ所やない」
御台様ご本人だった。
今いるところも奥殿だが、四年前に案内されたこの御方の居室とはかなり離れた場所だったので、まさか居るとは思わなかった。
「殿は鬼子になどお会いにならぬ! 下がれ無礼者」
その声はしわがれ、ハスキーさが増し、ひどく消耗しているように聞こえた。
顔色も悪く、まだ三十そこそこだろうに、厚めに塗られた化粧のせいでかなりの年増に見える。
「御台様」
興津が宥めるような口調で口を開いた。
「これ以上お待ちになられても」
「妾は我が殿の妻ぞ。このようなときに側におらずなんとする。そのほうが通さぬだけであろう。殿に会わせよ」
「御屋形様ご本人より、若殿のお側についているようにとの御指示です」
「そのようなはずはない!」
「大きな声はお控えなされよ」
赤く朱が塗られた唇が、きゅっと結ばれた。
興津は、こちらもかなり疲れ切ったような武骨者の丸顔に、毅然とした表情を浮かべて首を振った。
「今はご遠慮願います」
「そのほうでは話にならぬ!」
「何を申されようと、御通しするわけには参りませぬ」
妻なのだから、側にいる権利があるのではないか。少なくともいち配下に過ぎない興津にそんな事を言われる筋合いはないはずだ。
そう思うのは勝千代の現代人としての感覚だ。
ここまで強く拒絶するのだから、御屋形様の御意思なのだろう。
「興津殿」
フラストレーションがたまった御台様の声は大きく、同じ部屋にいるのを遠慮したくなるほどだったが、興津に更なる罵詈雑言を突き付けている最中に廊下の方から静かな声が掛けられた。
「お声がご寝所まで届いております」
「おお、それは済まぬ」
申し訳なさそうな顔をしたのは興津だけ。御台様はさっと医師らしきその者の方に向き直った。
「殿は、我が殿はどうじゃ。御無事なのか? お加減は……」
「少々無理をなさいました。お休みになられたほうがよいのですが」
きちんと両膝をそろえて座っている男は、四十がらみの僧形だった。医者だろうか。
御台様から視線を逸らせて勝千代の方を向き、丁寧に頭を下げた。
その時、ピカリと空が光った。
まだ日は高いはずなのに、分厚い雲が空を覆い、天候はますます不穏だ。
一、二、三……五秒を数えた後に、ドドン! と地響き。
「ひっ」と御台様及びその周囲を取り囲む女房殿たちが悲鳴を上げる。
まだ遠いから大丈夫。
そう安心させてやる謂れなどなく、その場にうずくまって頭を守るような姿勢になっている女性たちをさっと見下ろした。
雨足がますます強まってくる。
大粒の雨が屋根を打ち付け、軒先からザアアアアとかなりの量の水が落ちてきている。
「御屋形様が、御案内をと」
勝千代は豪雨のカーテンに覆われた庭先を背景に、丁寧に下げられたままの坊主頭をじっと見た。きれいに剃りあげられているが、ジャガイモのようにごつごつと凹凸のある頭だ。
「……な」
うずくまったままの御台様が、ぶるぶると震えながら顔を上げた。
「何故っ」
ものすごい表情で睨まれた。恨み、憎しみ、怒り、それらすべての感情が混じりあった恐ろしい形相だった。
勝千代は一瞬だけ合わさった視線を即座に外した。目だけで縊り殺されそうだったからだ。
誰かにそこまで憎まれるというのは、気持ちのいいものではない。
何故、と御台様は繰り返す。
うつるような病気でもないのに、妻として側にいるべきだという主張が通らないのは、この夫婦の関係がしっくりいっていないことの表れだろう。
これまでまったく考えもしなかったが、御屋形様と御台様が仲睦まじいと言えないのなら、余計な憶測から余計な事を危惧する輩が出てくるのも頷ける。
再び曇天に雷光が走った。
女性たちが悲鳴を上げる中、勝千代はじっとこちらを見ている医者に向かって「では案内を」と静かに言った。
「おつきの方はここまでで」
当然だがそう言われて、たちまち逢坂らが不安そうな表情になったが、きっと大丈夫。
興津はついてくるのだろうし。
「まちやれ!」
御台様がかすれた声で叫んだ。
同時に、どこかに雷が落ちたとわかる振動。上がる女性たちの悲鳴。
背後から何かが飛んで来たが、届くことなく床にぱたりと落ちた。




